認識について

私たちの認識は脳が行なう所作であることは間違いない。

そして、脳は我々が「空間」と認識するものと「時間」と認識するものを

同一次元では認識できなかったのだろう。

 

いま読書をしている。

目の前に文庫本を持ち、半分くらい読み進んだところである。

右手は静かにページをめくり、

視線は文庫本の左側から新しいページの右側に移る。

私は本の奥行きを感じ、私の手はページをめくる感覚を覚えている。

目の前の文庫本はたしかに奥行きを持ち、高さも横幅も持つ、

私たちが「本」だと認識するものである。

さて、ここで考える。

この、私たちが認識する「本」という物質が、

私たちが認識する姿で本当にここに存在するのだろうか?

私たちは生まれてからずっと視覚や触覚などを互いに調整して物事を認識してきた。

だから、それらが間違っているとは絶対に認識できないのだが、

でも、それらはすべて我々の脳が捉えている姿でしかない。

視覚にしても、可視光の範囲以外の光は存在しないから、

いまのような世界観になっている訳だが、

この世界に普通に存在する紫外光や赤外光をとらえることができたら

世界の認識は一変するだろう。

同様のことは何に例えても言うことができる。

すなわち、認識は外部感覚器の性能以上にはありえない。

しかも、その情報管理をしている脳もまた

情報を認識する過程で特定の論理体系に持ち込むのだから、

その論理以外の体系に同じ情報をインプットした場合には

全く異なる認識になることは間違いないだろう。

例としては間違っているかもしれないが、

時間と空間はアインシュタインが美しいモデルを提唱している。

しかし、これは数学(物理学)の論理体系においてのみ現時点では理解されるに過ぎず、

空間と時間を共有して認識することは私たちの脳には不可能だろうと思うことは、

「かたち論」でも議論した。

 

私は発生学と呼ばれるかたちの変化を考える商売をしている。

この時にいつも、かたち(空間)と時間を同時に考えられず悩んでいる。

何となく思うのは、時間軸を空間軸のように認識して、

ある瞬間のかたちが次の瞬間のかたちへと変化すること自体を

「かたち」として捉えられたら何か見えそうに思うのだが、

それがとてもじゃないが私にはむずかしい。

細馬さんは「かたちの変化のかたち」というきわめて重要な提案をしているが、

私がこれを考えようとすれば、

「変化」という事象自体を空間的に認識して「かたち」に変換してしまう。

だから、時間の流れを頭の中で固定して、それを視覚的に考察してしまうのである。

養老孟司氏によれば、ヒトの脳は視覚情報と聴覚情報をつなげられないらしいので、

かたちを考える以上は、時間軸を空間的に捉えるしか仕方ないのかもしれないが、

そこで問題が生じる。

ある瞬間のかたちというものはそこに存在する訳で、

そのかたちが次の瞬間に変化をすることがはたらきであろう。

かたちの変化自体をかたちとして認識する過程は、

はたらきをかたちに置き換えて、

養老氏風にいえば聴覚情報を視覚的に処理して認識することになると思う。

そうすると、ある瞬間のかたちと、次の瞬間のかたちに加えて、

それらかたちの変化という「かたち」を理解する必要が生じる。

これができない。

私の持つ哲学大系にはまだ言語体系に依存しているために、

論理が脳の認識を超えることができないということなのだろうか?

アインシュタインのように、全く別の論理大系に載せることによってしか

発生の本質を考えることができないのだろうか?

いつもここで行き詰まる。

 

聴覚言語と視覚言語についてはたびたび議論されるところだろうと思う。

おおざっぱにいえば、聴覚言語には時間軸が必要であり、

視覚言語には時間軸は必要ではないということになろうから、

前者がはたらきで後者がかたちなのだろう。

もちろん、視覚言語を読むという動作に時間軸がなければならず、

したがって、視覚言語も聴覚言語も本質は同じだという議論はあるが、

ヒトによる認識を俟たなくても記号として「意味を持つ」わけだから、

これは十分にかたちとして認識できるはずだと思う。

ただ、たしかに読書をする速度は目が追って頭で音読(黙読)する速度に依存する。

だから、視覚言語の情報を脳で処理する時には聴覚言語として認識されているだろう。

しかし、これにも一つの疑問がある。

以前にも議論したことなので詳細はそちらに譲るが(https://hashimochi.com/archives/842)、

視覚言語をかたちとして時間軸を無視して認識できるのではないのかということだ。

言語は、当然だが聴覚言語として発生したはずである。

だから、私たちは視覚言語をも音読してしまう。

あるいは、幼児教育、あるいは小学校教育で、

絵本や教科書を音読する(させる)ことを刷り込んだために、

私たちは視覚言語を認識する能力を発達させられなかったのだろうか?

かたちの変化のかたちを、脳を使って考える時のヒントが

何となくこの辺りにありそうだと思うのは間違っているのかな???