それは訳(やく)ではない
翻訳について考える。
例えば英語の授業などではとにかくどんな日本語でも訳す技術を教える。
で、ここをゆっくり考えてみると、
「訳」という術語にいくつかの種類があることが見える。
例えば逐語訳的には間違っていても、
文章の本意を見れば誠に明確な訳というのがある。
それは、そのことばやその文章が指し示す状況を表現する日本語が存在するから、
まさに、その状況を「訳せた」のである。
しかし、多くの場合にはその文章やことばが指し示す状況を日本語では表せない。
この時にその英語をどう訳するのかと言えば
その英語が指し示す状況を日本語で「説明する」しかない。
したがってそれは「訳ではない」のである。
翻訳の定義はおそらく「説明」の方も含めているのだろうが
(たぶん辞書を編纂する人もここまでのことは考えていないだろうが)、
でも、外国語を初めて習う生徒は「訳」と聞けば
英語とそれを約した日本語はまったく同じものであると錯覚するだろう。
本質を考える時には「状況説明」的な訳では役に立たない。
そのことばが規定されている周辺状況がまったく異なる状況で
そのことばだけを近似的に説明しても空しいだけであろう。