ことばの問題

かたち論で繰り返している認識についてであるが、

日本語の論理と外国語の論理は異なり、

日本語で思考する時と外国語で思考する時では

その思考過程や内容、あるいは結論に至るまで大きく異なる可能性について

これまでに議論してきた。

特に日本語は「間」を重要視するのに対して

英語では「個」を重要視することから

その議論の視点が180度異なることを指摘してきた。

日本語と外国語では、同じ物事を見てもその切り取り方が異なるので、

まずはインプットの段階でことなる情報を取り入れている。

それを異なる体系で論理構築するのであるから

結論は自ずから異なることは当然であるといった議論である。

 

しかしこれはあくまでも理屈の上でのことであり、

本当にそうなのかについては知る由もなかったのであるが、

最近おもしろい話に出会った。

日本人の夫を持つフランス人の女性(蓮實重彦夫人)の文章である。

少し長くなるが、その一部を引用する。

 

「私にとって、何かをじっと見つめることは

愛することの同義語のように思われていました。

ほんの一瞬、ちらりと視線を送ることは、

愛情を欠いたよそよそしさにつながるように今でも思ってしまいます。

(日本人である私の夫から)いったん私に注がれたその瞳は、

今度は私ではないさまざまなものの上を揺れ動き、

時折また私の上に戻ってくる。

それは、私を世界の中に位置づけようとする視線の動きだと私には思われました。

ところが、一緒に外出して戻ってきてから、渡したじっと見つめたものの話をすると、

夫は、「ああ、ぼくも全部みていたよ」と言います。

事実、夫は私のみたものと同じものをしっかりと記憶にとどめていました。

集中的な視線に対して、一瞬の包括的な視線というものがあるのでしょうか。

(中略)

私たちは、あまりカメラを肩に下げて旅行する習慣を持っていませんが、

時折り、夫と私が撮った写真を見比べてみますと、

二人の視線の違いがよくわかります。

夫の写真では被写体は、あたりの風景に調和したかたちで位置づけられている。

私の撮った写真では、被写体が周囲から切り離されている。

ここにも、包括的な視線と集中的な視線とがはっきり出ているように思います。

それは、ときどき夫の見せる、あの聞く視線とも言うべきものかもしれません。

私の話に相づちを打つ時、彼は、私を見つめるのではなく、

話している私を受け入れようとするかのようにやや瞳を伏せ、

身を傾けているのです。

(中略)

私は、日本に来て、凝視とは異なる視線の使い方を学びました。

それは、送られてくる雑誌類の中から、

夫の書いている部分を即座に見分ける視線です。

目次に目を通す前に、パラパラとページをめくってみる。

すると、活字の配置や漢字と仮名の割合、と言ったものから、

すぐに夫の文章が載っている雑誌かどうか分かるのです。

(中略)

私も包括的な視線をとうとう手に入れたのでしょうか。」

(読点などは原文のまま、改行は橋本)

 

いかがでしょうか?

かたち論的視点から読んでみるとバシッと頭の芯に響くところがありませんか?

 

今後、すこしこの「日本語と外国語」の視点からかたちについて考えていこうと思う。