続・ことばの問題

意味について考える時に、

ソシュールに端を発し、フーコー・ドゥルーズ・デリダ・ハイデガー・・・

などの思想に触れることは避けられない。

しかし、ここでぶち当たる問題として、

その論理の根拠であるところのことばの問題である。

 

西洋の言語体系では、絶対個の存在を前提としている。

しかし、ア・プリオリに存在を規定できない以上なにかと相対しなければならない。

それが唯一絶対の神であろうと私は考えた。

もちろんこの論理は正反対であるかもしれない。

唯一絶対の神への信仰がことばの成立以前にあった為に

西洋言語がこのような体制へと作り上げられたのかもしれない。

どちらが先なのかは私ごときには理解できるはずもない。

 

ただ、唯一絶対の神、おそらくこれは思想の根源に位置する、

あまりにも当然であり意識すらされないだろう存在によって、

個がア・プリオリに成立しているような錯覚を持つ西洋人の思想が、

ことばや論理体系の違いのようなその「前提条件」たるものを考察しようとする時に

どれほどまでに意味を持つのかが分からないのだ。

この辺りを考える時に絶望的な気持ちになってしまう。

ハイデガーが存在について思考する時の「存在」が

我々が切り出してくる「存在」と同義なのかどうかという問題なのである。

 

一般的にいわれる哲学も、おそらくは西洋哲学を指す。

西洋の哲学は、もちろん西洋の言語によって構築されている訳だから、

とうぜんキリスト教など西洋宗教(この表現が正しいのか?)の影響を受けている。

もちろん日本語が仏教の影響を受けていることは自明である訳で、

我々が日本語を話し、日本語で思考する以上は、

その思考から仏教の影響を排除することは不可能であるのと同じである。

そもそも「個」に意味付けをするか「間」に意味付けをするか

根本的に異なる論理体系において

両者が比較可能であるのか?

比較可能であるとするなら、どのようなレベルでの比較が必要なのか?

それが見えて来ないのである。

 

私がフーコー・ドゥルーズなどを読んだのは

今のような「かたち論」的思考をする遥か以前であったので

このようなジレンマに押しつぶされることはなかったのだが、

いまもういちど読み返した時にどう感じるのであろうか?

堂々巡りの暗闇をさまよわなければ良いのだが・・・。