ゲシュタルト
ゲシュタルトの説明をするのに「からす」という言葉を私は例示する。
これは、内田春菊さんのマンガを例に話すからであって、
「からす」自体には特段の意味はない。
まず初めに、たとえば「か」という文字を考えてみる。
この文字は三本の線からなることは簡単に見て取れる。
この三本が、この配置になって初めて「か」となるわけで、
三本の配置がこの関係性から大きく逸脱すれば
「か」という平仮名はゲシュタルト崩壊する。
この線の並びによって平仮名の「か」の意味が成立していることになる。
この際に線の太さや大きさは問題とされない。
しかし、ひとつの線だけがが極端に長かったり太かったりすれば
その文字は「か」を意味しなくなる。
これは三本の線の関係性が崩壊したからにすぎない。
次に「からす」を考える。
これは「か」「ら」「す」という三つの平仮名から成立している。
この三文字がこの順序に配列して初めて「からす」の意味を持つ。
この順序(あるいは配置・配列)こそが「からす」の意味にとって重要である。
ここで大切なことは、まず「か」自体がゲシュタルトであるものの、
それが「か」として閉じてしまえば、
それは「からす」という高次のゲシュタルトにとっての要素となることである。
もちろん「からす」も、カラスとして閉じてしまえば、
より高次の文脈における要素となる。
もう一つ注目すべきことは、
「か」という文字における三本の線、
あるいは「からす」における三文字をバラバラにして
それらをそれぞれ解析しても「か」や「からす」の意味は出て来ない。
要素が適当な関係性を築き上げた時にゲシュタルトとしての意味が成立する。
これが、ゲシュタルトを辞書で引いた時の
「部分からは導くことのできない、一つのまとまった全体性のある構造」
「部分の総和としてとらえられない特有の全体的構造」
のような説明の意味である。
さて、この辺りまでの説明は比較的簡単である。
講演会などでも割と理解をして頂けていると感じている。
目に見えるかたちでの配置や順序などを関係性と言われると
何となく直感的に納得しやすいのだろう。
ここでいきなり「言語も全体として論理体系であり、
個々の要素を解析した時点で言語体系に潜む関係性(論理)が
ゲシュタルト崩壊をしてしまう」なんて言ったとき、
この「論理体系」という概念と「からす」がつながらないのである。
例えばキリンの首の話をする場合に、
いきなりあの高さまで首が伸びたら脳貧血で倒れるから血圧をあげなければならない。
その為には心臓のポンプ圧をあげ、血管を高血圧仕様にしなければ首は伸ばせない。
さらには肺活量も上げないとはいた空気をもう一度吸い込むことにもなりかねないし、
などなど、キリンのゲノムが進化する時には直接間接を問わずに
さまざまな変異が同時に生じなければなならない。
この話だけは簡単に理解をしていただけるのだが、
ここでいいたいのは、このように直接には関係のない働き同士が
互いに関係し合わないと体系にほころびが生じ
そのようなゲノムは成立し得ないということであり、
こういう関係性も広義の意味でのゲシュタルトの概念に入れるということである。
ゲシュタルトやかたちという考え方は
モノに焦点を当てるのではなく、モノとモノとの間に注目するということであり、
何となく漠然とし過ぎていて具体例として捉えにくいのかもしれない。
また、西洋科学の考え方は基本的にモノに焦点を当てる方法論なので、
「科学的」に「間」を考えると思考停止をしてしまうのだろう。
「からす」で例示した配置や順序という関係性も、
一見すると平仮名というモノに焦点を当てているように誤解されるかもしれないが、
あくまでも平仮名同士の並びという「間」にのみ意味があるということである。
ただ、この考え方は西洋人よりも日本人には馴染みがあるはずである。
日本人は、自分の存在を他者との関係性において意味付けして来た。
その見えないモノに重きを置いて生活をして来た訳なので、
普通に日本語的思考をすれば特に難しく考える必要はないのだろうが、
敗戦以来の西洋科学的思考がこれを邪魔して来たのかもしれない。
なんにしても、ゲノムを論理体系として考察する方法論は取り入れられるべきだし、
それは、昨日にも議論したことなのだが、
おそらく言語学や哲学・宗教など論理を規範とする解析がなされて来た
「文系」学問の方法論に学ぶべき点は多いような気はする。
「ゲノム」を「論理」だと考えることに抵抗がある以上は
どうしても唯遺伝子論的な考え方に終始することになるのだろう。