構造の進化

構造・ゲシュタルト・体系・形態・・・なんと呼んでも良いが、

私はこれらをひとこと「かたち」と呼んでいる。

特有の関係性を築いた複数の要素が、

その関係性によって特有の意味を持ったものを指す。

だから、論理体系というのは明確に「かたち」だろうし、

言語体系ももちろん「かたち」である。

思想や宗教も体系としての「かたち」であることは間違いない。

 

さて、生きものの進化とは、とりもなおさずゲノムの進化を指す。

すなわち、ゲノムという「かたち」が長い年月を経て変化を遂げ

それぞれが特有のゲシュタルトとして成立する過程や原因・結果を見る訳である。

DNAを遺伝情報として持つ限り、

生きものすべてに共通する論理体系は存在するはずである。

また、俗にいう近縁種のゲノムはかなりの部分で同じ論理体系を用いていると推測できる。

あるいは、同じ動物門に属する生きもの同士のゲノムは、

ある程度は同じ論理によって成立しているだろうし、

むしろこの説明は逆であり、

ゲノムに潜在する論理の異なり具合によって

分類がなされていると考える方が理に適っているだろう。

 

DNA配列に生じている変化を元に

複数の生きものを比較してそれらが分岐した年代や順番を探る

分子系統学と呼ばれる学問がある。

DNAに導入される変異はあくまでも確率論的に中立であり、

だから、分岐してからの時間が長ければ変異も大きいと考えるのである。

この方法論で、現存する生きもの同士の家系図を性格に描くことにより、

ゲノムの変異の歴史を目の当たりにすることができる。

だから、非常に有用な学問であるといえるのだが、

ただ、これはあくまでも「似てる似てない」「近い遠い」を言うだけにすぎない。

ここの分類群に共通する、あるいは隣り合った分類群間で異なる論理体系に関しては、

まったく予想することすら現時点ではできないのである。

 

ゲノムにかかる淘汰圧とは、

平時にはゲノム体制を維持する方向に向かうと考えるのが筋が通っていると思う。

すなわち、その時点でのゲノムはその環境により磨き上げられて来た訳であり、

そこに変異が導入されたとき、その変異はほとんどの場合に有害であろう。

だからこそ、ゲノムに大規模な変異が導入され、

様々な論理体系が新たに構築されるきっかけとは、

それまでに磨き上げられて来たゲノムの体制が生存に不利となる場合、

すなわち環境の大規模な変化が起こった場合に限られるように思うのである。

 

このような視点を残したまま、少し他の論理体系の進化に目を向けよう。

すぐに思い起こされるのは比較言語学であろう。

日本語の親戚がどこにあるのか知らないが、

ヨーロッパ辺りの言語は互いに親戚関係にあるものが多そうな気はする。

これらのつながりがどうなっているのか?

言語の進化学のような学問が存在するのだろうか?

言語学という学問分野が存在し、

現存する言語の論理体系を文法という形式で解析しているわけで、

その論理体系の歴史的な変遷について確立したものがあれば、

それは本質的な意味においてゲノムの進化を考える助けになろう。

ただし、あくまでも本質の議論なのだから、

表面的な相似性の議論に陥ってはならないと感じる。

相似性とは、最近も書いたことだが、

4文字表記の言語としてゲノムを捉え、

26文字表記(50音表記)の言語との表面上の類似性を求めることであろう。

 

もう一つ、簡単に思い当たる論理が宗教である。

例えば仏教を考える(仏教を宗教と呼ぶべきかどうかはここではおいておく)。

釈迦が確立したとされる仏教は原始仏教と呼ばれるらしいが、

釈迦以降には仏教に保守や革新などの各派が乱立して部派仏教と呼ばれるようになった。

分裂の理由としては地域の相違や種族の相違、

あるいは言語の相違や経典への理解の仕方の違いなど様々であるらしい。

これらがさらに、「仏陀にかえれ」として元々の原始仏教との戻し交配がなされ、

般若経・法華経・華厳経などの大乗仏教の経典へと広がっていったとされる。

例えばこれらの変化を考えた場合、

ひとつの経典を成立させる為にはそこに一貫した論理がなければならない。

他の経典の一部を変化させただけでは論理はどこかで破綻し、

民衆により淘汰を受けて絶滅するだろう。

ということは、何らかの変異をきっかけに一度脱構築をした後に

全体の再構築がなされなければならない。

この過程を研究することはゲノムの進化を研究することに質的に相同であるだろう。

 

このような考え方をさらに押し進めることで

学問間の垣根は質的に取り払われるはずである。

私は学問に理系も文系もないと言い続けている。

まあ、対象を自然界に存在するものに見つけるか、

それとも人間の脳の中に見つけるかの違いで理系と文系を分けても構わないが、

それを考えるのは結局のところ人間の脳なのであって、

考える対象も「論理体系」であるのだから、

強いて理系・文系を分離することには確たる意味はないと思えてならない。

(などと書くと、特に脳のくだりなどは養老孟司氏の文章にも似ているような気になるなあ)。

だから、先日も触れたが、理科離れという言葉には違和感を覚える。

事前現象を対象にする学問から離れているのではなく、

対象に関わらずすべての論理的思考から離れているのだろうと思う。

だからこそ、この「理科離れ」は由々しき問題なのだろう。

 

論点がそれたので元に戻す。

とにかく、視覚的に見る生きものの外部形態とは

ゲノムに描かれている「かたち」を具現化しているものであるから、

外部形態を指標として進化をたどるのは極めて正しい。

ひとつの分子機構を比較することで相同性を議論するよりは、

むしろかなり的を射ていると思う。

なぜなら、外部形態というかたちもゲノムの論理体系の所産に依るものであり、

ひとつの分子機構を調べてゲシュタルト崩壊を導くよりも、

外部形態を比較することによりゲノムのかたちを比較することの方が

本質的に意味があるからである

私は、ゲノムに存在する論理体系を「かたち」と称しているが、

本家本元のソシュールの構築した体系も「構造論」であり、

かたちや構造という概念が、生きものの外部「形態」につながるのは

もはや必然としか言えないと私には思えてならないのである。