人権

人権感覚は、「絶対的な個」を意識しないかぎり芽生えない感覚ではないだろうか?

子供に対する人権意識など日本人が持ちえた感覚ではとうていありえないと思う。

三宅久之氏がよく言うように、

子供なんて動物と同じで礼儀作法や倫理・道徳を叩き込まなければならないというのも、

日本人に特有の感覚のように思えるし、

その子供が大きくなったときに自分達の社会に入り自分達と関わりを持つため、

社会の規範を教え込む必要を説いたのだろう。

 

人権と言えば、犯罪者に対する人権に違和感を覚える。

冤罪の可能性を考慮した上での「人権」ならともかく、

犯罪者に対する権利意識などにいたっては私にはまったく理解ができない。

犯罪者の権利としての取り調べの可視化についても

体罰を容認するか否かと同様の議論が存在するように思う。

体罰は、それ自体を議論すれば容認はできないだろう。

しかし、それでも私は体罰を否定しきれない。

ちゃんとした先生が愛情を持って下す体罰なら私はこれを是とする。

むしろ教師から力技を取り上げ丸腰にした上で

子供の権利や保護者の権利を声高に訴える

いわゆるモンスターペアレントの存在の方が教育的には問題があろう。

何が問題かと言えば、まずは先生に逆らうことを子供が当然のことだと思う。

先生のことを小馬鹿にする子供が正しい教育を受けられるとは思えない。

教師は子供から尊敬されてこその教師である。

尊敬されないのは先生自身の問題だという議論は分かるが、

それでも、尊敬されるように周囲が支えてこその教育ではなかろうか?

私たちが子供の頃に親が先生を馬鹿にするようなことはおそらくなかった。

教師とは神格化されるような存在だったようにも思うし、

少なくとも小学校の教師は絶対的な存在だった。

それが当然のことだった。

子供が様々な経験を積み、勉強をした上で構築された考え方において

子供自身がその先生を判断することは構わないと思う。

高校生くらいになれば教師の質を見分けられるだろうし、

そこにいたっても盲目的に教師を神格化しろというつもりは毛頭ない。

ただ、小学校レベルでは子供と大人が対等であるみたいな考え方は

百害あって一理もないと思わざるを得ない。

 

横道にそれたので話を体罰に戻そう。

問題は、体罰そのものを是とした時に起こる

中途半端でいい加減な、自分を偉いと勘違いしている教師に

体罰容認という錦の御旗を与える危険性が存在することであろう。

同様に、取り調べの可視化に関しても、

本当に悪いやつを取り調べる場合には人権に配慮する必要はないと私は考える。

しかし、犯罪を起こしていない人が犯人に仕立てられる危険性があるのだから

やはり、取り調べを可視化してしまわないと恐ろしくてならない。

体罰にせよ可視化にせよ、万一の時の危険性を排除するあまり、

それと同等に必要なものをなくしているような気がする。

体罰を絶対的に非とする考え方は

体罰を絶対的に是とする考え方と表裏の関係であり、

まったく違わないことに気付くべきだろうと思う。

などと書くと橋本は体罰容認派だと誤解を招くのだが、

体罰には原則的には反対であることは間違いない。

ただし、必要悪というのが存在するはずであるとの立場から

「絶対反対」の立場を取らないだけである。

 

体罰も可視化も、制度を運用する側に性善説をとれば賛成であり、

性悪説をとれば反対であるというのはおそらく皆さんに納得してもらえると思う。

ただ、性善説・性悪説という議論を無視しても

危機管理の立場に立つと最悪の状況を想定せざるを得ない。

すると必然的に性悪説に立たなくてはならないわけで、

やはり可視化は仕方ないことだろうし、

体罰は絶対に容認すべきことではないのだろう。

 

以前に民主主義が正しいとは思えないと書いた。

これも同様の議論になるだろう。

尊敬に値する有能な指導者が導く社会がもっとも優れていると思うのだが、

そこに全権力を集中させることにより

愚劣な指導者が独裁体制を敷く危険性が存在する以上、

次善の策としての民主主義が選択されているのだろうと考える。

しかし、この議論をせずに民主主義という制度が何よりも優れていると教えるのは

少し問題があるようにも思えてならない。

制度の成り立ち、その基本理念や基本哲学、

あるいはその制度の問題点や歴史的意味合いを示しての議論をしなければ

本質的な意味での将来の問題解決能力を失ってしまうだろう。

蛇足だが、民主主義を批判しているのでは決してない。

問題視しているのは、「民主主義絶対論」ともいうべき考え方である。

民主主義とか透明性とかは重要だと思う。

しかし、それを絶対視することには否定的な意見を持っている。

あらゆる方法論があり、それぞれに良い面も悪い面もある。

その上で我々は民主主義という制度を選択したのであって、

民主主義はすべてのものと比較しても最善のものであると言われると、

あるいはその臭いがするだけで辟易としてしまうのである。

 

私はこのような問題の原点に

全体的(かたち論的)な視点を持つ日本人の思考体系に

「絶対個」の立場で成立した西洋社会の仕組みを

戦後に無理矢理組み込んだことの弊害が現れているように思うのである。

近年の「グローバル化」と称する西洋社会制度の盲目的移植もこの問題に拍車をかけているように思う。

極論すれば、「民主主義という考え方」そのものが

日本人の論理体系にはそぐわないとさえ思ってしまう。

 

これらはたぶんかなりの極論だろうし、

真逆の意見をお持ちの方も大勢いらっしゃると思う。

もちろんそれらを否定するつもりはないし、

まあ、すべては橋本の極めて個人的な言い分であることは間違いない。

気分を害された方には申し訳ございませんでした。