意味付け

何かの意味がア・プリオリに決まるとは考えられないと何度か書いた。

まず、その「何か」をどのようにして切り出してくるかが問題である。

その切り出しは、時に言語体系に依存する。

と、まあこの議論はここでは深入りせずに進もう。

次に、何かを意味付けする時には別の何かと相対化しなければならない。

すなわち、複数のものが何らかの関係性を作り上げ、

その中でのみ意味を持つのである。

だから、おなじ「何か」でも相対化する相手が異なれば

意味が異なるのは当然のことであろう。

クリスタリンがある文脈では代謝酵素となり

異なる文脈では眼のレンズ形成に働くのは周知の事実である。

我々日本人は常日頃からとにかく周囲を意識している。

周囲の物事と自分との関係性を気にしながら行きていると思う。

だから、日本人の鬱病患者は他人(社会、周囲)とうまくいかないからと悩む。

とにかく、個人ではなく関係性の中の要素である認識が強いように感じる。

対して西洋人は、個人がまず最初に存在する。

だから、個人としてあるべき姿になれない、

父として、夫としてすべきことができないと悩む。

こう見ると西洋人は自分の存在意義を相対化していないように思えるが

それはおそらく間違っている。

では何と相対化しているのかと言えば

それは「唯一絶対の神」であろう。

だから、例えばキリスト教で神を否定することはすべてを否定することにつながる。

なぜなら、神の存在を否定することで自分が存在する拠り所を否定するからである。

私たち日本人の周囲には八百万(やおよろず)の神様が存在するが、

唯一絶対の西洋的な神が存在するとは思えない。

この意味において仏教を宗教と呼ぶことに抵抗を覚えてしまう。

いや、宗教と呼ぶことは構わないが、

それをイスラムの教えやキリストの教えなどと同じレベルで比較することに

すごい違和感を覚えるのである。

私たち日本人は、例えば村社会の中で自分の存在意義をもつ。

何かの集まりの中で自分の場所を見つける。

だから「ママ友」ができないと悩むおかあさんが現れる。

学校で孤立していることが死に至る病になり得る。

海外でたまたま日本人に出会うと「戸籍調査」が始まる。

「おいくつですか?ご出身は?大学はどこですか?

じゃあ、○○さんはご存知ですか・・・・・」。

自分の立ち位置が決まらないと自分の存在意義が極めて不安定なのだろう。

だから、他人との関係性を構築しないと落ち着かない。

それは、そこにこそ自分がこの世界に存在する意味があるからである。

仏教的な意味は知らないが、悟りを拓くとか解脱することっていうのは、

もしかしたらこのような関係性無しに自分自身を意味付けすることなのかもしれない。

あるいは、西洋でいうところの唯一絶対の神に変わる何かを己の中に見つけることか。

私たちは自然に生かされていることを知っている。

他人に生かされていることは私たちにとって紛れもない事実なのである。

私たちは周りにあるすべてと調和して生きている。

この感覚は西洋の人にもあるのかと言えば、

個人的にはそれは無いように感じる。

確かに理屈で言えば彼らも周囲との関係性を意識していると話すだろうが、

どうもそれは非常に論理のうえだけの乾いた関係性のように感じられてならない。

理屈の上での必然的な関係性か、あるいは神を介した関係性であって、

私たちが感じているような、それに依って立つ、

じっとりと生活に密着した関係ではないような気がする。

絶対的な個と、それを担保する絶対的な神との関係性においてのみ規定される価値観が、

仏教の悟りや解脱をどう理解しどう咀嚼できるのか?知りたい気持ちでいっぱいである。

まあ、この意味においては仏教が小乗仏教から始まったのは至極まっとうな気もする。

そして、特に日本で大乗仏教が盛んになったのも非常に納得できるのだが、

ずぶの素人がこんなことを書いて宗教関係者から叱られるだろうなあ・・・。

まあ、あくまでも個人の感想ということでお許しください。