大発見する方法

文章を書く時にはその瞬間に頭にあることから書き始めます。

読んでいる本に影響を受けますし、

直前に聞いた話やテレビ放送なんかにも影響されます。

これも、おそらく新聞かなにかに発見の話が出ていたのでしょう。

まったく記憶はありませんが・・・。

 

「大発見する方法」(2004,3,1)

科学的な大発見とは何であろうか?

新しい事象を文字通り「発見」することだから

発見という言葉の意味は誰にでも分かる。

しかし、「大」は各自の主観にゆだねられる。

新聞やテレビで扱われるものは

ある意味で「大」発見と考えてよいだろう。

ということは、大多数の主観が「大」発見であると認めうるものこそが

一般的にも大発見とできる。  

分かったような分からないような話である。

ではどんな発見が大発見なのだろうか?

科学的な発見は日々行なわれている。

世界中の研究機関で無数の発見がなされている。

これは日々数え切れない論文がでていることからも分かる。

論文は、少なくとも過去に公表された内容では困る。

新しい発見が示されなければ論文としては成立しない。

しかし、ほとんどの発見は大発見とは認められない。

その証拠に、新聞の科学欄に載る発見の数は

公表される全論文数に比べれば限りなくゼロに等しい。  

大発見と認識する尺度は様々である。

まずは人間の役に立つかどうか。

ミミズの研究よりはヒトの研究の方が注目されやすく、

基礎研究よりも病気治療などの応用研究の方が 大発見であると認識されやすい。

ヒトに関わる研究が偉くて、ミミズの研究が偉くないと言う訳ではない。

人間にとって重要であるか否か?

これがこの場合の尺度であることに過ぎない。  

実はこれ以外に大発見をする方法がある。

それは、それまでの常識が嘘であったと証明することである。

地面が動いていると証明することで

太陽が動いているという常識を覆したことは大発見である。

だからいまだに「目から鱗が落ちる」発見を「コペルニクス的発見」という。

ニュートン以来、運動は全て連続的であると信じ込まされてきたときの

マックスプランクの登場はとんでもない驚きであっただろう。

ということで、大発見するためには まず「嘘」を一般に広めなければならない。

その嘘が常識となったときにそれが間違いであることを「発見」すれば

それは「大」発見となるのである。

現代科学の常識で、ある形を持つ生物は存在しえないとする。

そして、そのような生きものが発見されたとき、人はそれを大発見というだろう。

しかしよく考えていただきたい。

その生物は、人間によって「大」発見されるはるか以前からこの地球上に存在していたのである。

その生きものにすれば、大発見だと騒いでいる人間に対して

「俺はずっとここにいたよ」といいたいだろう。

コペルニクスが地動説を唱えるはるか以前から地球は太陽の周りを回っていたし、

ニュートンが何を言おうが、マックスプランクが何を言おうが、

物質や粒子の運動はいにしえの昔より変化していない。

人間が勝手に自然に対して意味づけをして、

その意味の価値を勝手に判断しているに過ぎない。

人間の価値観なんて所詮この程度のことなのである。

他人からの評価に右往左往する人間特有の性癖は科学の世界においても例外ではない。

さて、大発見の準備としてどんな嘘を広めようか?

一杯やりながらゆっくり考えることとしよう。