親の言葉

教育関係の何かの記事を呼んでいてふと考える事があった。

「あの子とは友達にならないように!」という親の台詞についてである。

私が子供の頃から同じだろうと思うが、

親は、例えば子供が不良のような友達と遊んでいると上のような台詞を言うことが多いだろう。

対象は地域にも及ぶ事さえあるだろう。

「あの辺りの人とは友達になってはいけない」とかいうふうに。

 

いろんな捉え方があると思うのだが、

わたしはここで「意味」について考えてみたい。

何度も言っているように「意味」はア・プリオリには存在しない。

必ず周囲との関係性において規定されるモノである。

だから、同じ言葉を使ってもその「意味」は異なりうる。

日本語である以上は、定義としての意味が大きく異なる事はないだろうが、

その意味の持つ「意味」が異なる事は一般に十分にあり得る。

その「意味」とはたとえば倫理観であったり道徳観であったりが密接に絡む。

例えば、「万引き」という言葉の意味は基本的には共通であろう。

しかし、この行為に対する認識はこの言葉が使われる集団によって異なる。

万引きを悪い事と教えられ、

誰にも捕まらないし誰にも見つからない状況であろうと絶対に万引きをできない人は確実にいる。

それらの人にとって万引きという行為は、

ある意味での「絶対悪」の部類に入る行為であろう。

誰だって「万引きは悪いこと」だと知っているだろうが、

ある人は、親でさえもが、万引きを「子供が普通にするいたずら」としか思っていない場合がある。

「悪いこと」なんだけど「しても仕方ない行為」くらいにしか思っていない、

ひどい場合には見つかったのは不運だったという認識しかない。

友人から「悪い事だ」と言われても、

その友人の事が「偽善者」としか映らないくらいに

使っている言葉の本質的な意味が異なっている。

これ自体は、その人個人の価値観である事は間違いないのだが、

その価値観が形成される過程には環境がある。

周囲が「万引き」という言葉・行為をどういう文脈で日常的に使っているか、

それによってその言葉や行為の持つ意味ができ上がってくる訳だからである。

このレベルの価値観の形成に学校レベルでの道徳教育は無力であろう。

意味付けが日常的な周囲の物事によってなされる限りにおいて、

理屈としての善悪を教えても、それは知識にしかならないからである。

だから親は「家柄」や「友達関係」に口を挟む。

家族親戚の中で意味付けされてきた言葉や行為は、

あるいはその言葉にほとんど初めて触れる年代に、

周囲にいる友人知人がどのようにその言葉を使うのかによってその言葉は意味付けされる訳だから、

もちろんそれが正しいとして刷り込まれているだろう。

だから、認識している意味合いが決定的に違えば

同じ言葉を話しながらコミュニケーションすらできないことになる。

ただ、口を挟まれた方は親のいう「意味」が分からないから反発する。

いつの世にもある構図なのだろうね。

だから、たとえば金銭感覚や道徳観・宗教観、あるいは礼儀や常識などにおいても、

各集団や各家庭において間違いなく異なる。

もちろん全ての人の価値観は異なるものだからこれはこれで構わないのだが、

たとえば非常に重要な(その人が重要視している)価値観が互いに異なれば、

その二人が近しく付き合う事にはかなりの無理が生じるだろうし、

一緒に生活する事はかなりの困難を伴うだろう。

一般に「常識だ!」と主張する事がいかに頼りない事か分かるのだが、

自分の考える常識とは異なる事を「常識」だと信じる人が世の中にはたくさん存在するのである。

なお、蛇足ながら書いておきたい事がある。

それは、この文章で私は差別を助長している訳ではない。

一般論としての、そのような言葉の意味を考えてみたに過ぎない。

もう一つ言えば、例えば家柄が「合わない」ときに「上品」「下品」のような言葉が

あるいは「格式」などという言葉が出てくる事もあるが、

「合わない」のはあくまでも「合わない」のであって、

そこに上下の差はないだろう。

ある言葉や行為を「重要である」と意味付けしている集団に

その事をまったく重要視していない個人が入った場合、

ひとつの事柄だけならなんとか合わせられても、

その集団の中で意味付けされたありとあらゆる事柄に対して合わす事は無理であろう。

だから、ある程度は同じ意味付けをされた言葉を話す集団とでなければ生活はできない訳であるが、

それは上下の感覚とはまったく異なると私は思う。

それから、万引きを価値観の枠組みで話をしてしまったのだが、

もちろん価値観が違うからと許容される話ではない。

だから法律が存在する。

法律とは最小限の道徳であるといわれるが、

倫理観や道徳観は育った環境や宗教によって人さまざまであるから、

それを元に何かを規定するのは無理がある。

しかし、どんな価値観を持とうともこれだけは守らなければならないこと

それが法律として存在する訳である。

だから、ひとつの宗教が国家を形成する場合には

その法律はその宗教での価値観が反映されるのは当然である。

だから、その法律が他国の法律と比べて差異が生じることはあり得る。

とにかく、その法律が及ぶ範囲においてすべての道徳観・価値観の最小限のものが法律に書かれ、

それだけは皆で守るべきであるとされるのである。

だから、万引きは道徳的にも許されないばかりではなく、

法的にも決して許されるものではないという事である。

これは、社会的な意味での「差別」においても同様である。

なんだかまた違う方向に話が進んでしまった。

「意味」の話を広げたかったのだが・・・。