右ストレート
表題には大した意味はありません。
たとえばボクシングのストレートやジャブを繰り出す腕の動きを考えましょう。
肩の関節の動きを見ると二の腕は、腕を下に下ろした「気をつけ」の状態から
バンザイをするように腕を上げるような動きをしますよね。
動きはバンザイの途中で止まりますが、そこまでは同じ動きと言えるでしょう。
また肘関節より前は、曲げた腕を伸ばす動き、
いわばまさかりを振り下ろすような動きをするでしょう。
だから、たとえば肩関節の動きを先に終了し次に肘関節の動きが起これば
肘関節を曲げたまま腕を上げる「ガッツポーズ」に近い動きとなり、
次いで肘を叩き下ろす動きとなりますから、
上からぽかぽか叩く動きになります。
逆に肘→肩の順にそれぞれ動くとすれば
ボクシングのファイトポーズの状態
(肘関節が完全に折り畳まれ二の腕は真下に近い方向にある状態)から
肘を伸ばして「気をつけ」の状態になった後に
そのまま伸びた腕全体を地面に水平に持ち上げる「前へならえ」となります。
だから、もしこれをパンチだとすれば下から上に殴る事になるわけです。
同じ動きをしてもそのタイミングが違えばこれだけ動きが異なるわけです。
だから、結果として拳が肩から水平に直線を描くように前へ突き出るように
ストレートパンチを打つ時には肩関節の動きと肘関節の動きを協調させなければなりません。
肩関節を動かすだけでも何本も筋肉が動き肘に関しても同様ですし、
それを制御する神経の数もかなり多いでしょう。
その上、プロのパンチは人差し指と中指の付け根当たりで殴るのに対して
素人は拳の外側が相手に当たるように殴るという事ですから、
手首の動きも適切に調節されなければならない。
単にまっすぐに手を伸ばすだけの動きでさえ考えてみれば非常に複雑なのです。
さて、ではこれら個々の筋肉の動きを瞬時に判断し組み合わせる事で
私たちはストレートパンチを打っているのでしょうか?
すべての神経の微妙な作業をその場その場で行なうと考えるのは、
まあ、無理だろうと思います。
これは、私たちは自分の腕の動きを最初から自由自在に操れたのか?
と別の方向からの質問としても良いと思いますが、
これは間違いなく違うでしょうね。
生まれてからとにかく脳からの命令でいろんな動きをする過程で
その命令をすれば何が起こるのかを体験するわけです。
そして、その脳神経系の微妙な命令の組み合わせで
様々な筋肉が微調整を繰り返しながらその動きになることを
赤ちゃんは身をもって覚え、その脳の働きが全体性(関係性)の情報として保存される。
これが蓄積される事で、我々は自分で思った事が自然にできる事となるわけです。
それを、そもそも備わっている身体の働きとするのはおかしいのは、
生まれて一度のであった事のない動きをする場合には
大人になってもするのに苦労することからもわかります。
たとえばシャツのボタンを片手で留める事や、
手を首の後に回してネックレスの留め金をかける事など、
人にもよりますが初めてで即座にできる事はなかなかないように思います。
まっすぐ立っている事だって普通の事のように思えますが、
赤ちゃんはその事ですら苦労していますよね。
ある命令が脳から出れば身体を前に転けそうになり、
違う命令を脳が送れば後に転びそうになる。
また違う命令なら右に、あるいは左に転びそうになるわけで、
その「失敗」を何度も繰り返す事で
「脳がどの命令を出せば身体の重心がどちらに傾くのか」体得するわけです。
だから、大きくなって平均台でバランスをとるときなどにも
とっさに重心の移動を行なえるという事になります。
このようなありとあらゆる命令は、おそらく個別の神経の命令ではなく、
個々の神経からの命令の関係性をカセットのように記憶しているのでしょう。
だから、この動きをする時にはこのカセットの命令を出すっていう風に
身体(脳)に刷り込まれていると考える方が自然だろうと思います。
こう考えると、たとえばある動きをとっさにさせる為には
その動きの形を脳に刷り込んでおかなければならない事となります。
ボクシングで「ワンツー」の練習をしていれば試合でもワンツーを瞬時に出せるでしょう。
しかし、そこから先、ワンツースリーフォー・・・、
しかもあらゆる種類のパンチを織り交ぜて打つ練習をして
その動きを脳に覚え込ませていなければその動きはできません。
ストレート・フック・アッパーなど多様なパンチを個別にいくら練習しても、
それを組み合わせた動きがとっさにできるとはならないのです。
だから、ジャブ・ストレート・フック・フックのようなコンビネーションの練習を
繰り返し身体(脳)に覚え込まさない限りその動きはできません。
また、単にパンチのコンビネーションをサンドバッグに打ち込むだけではだめで、
その瞬間の相手との距離や、相手の頭がどこにどうあるのかを想定し、
その場所に最も有効な形で打ち込む事を練習しなければ意味がない。
これは天性のものではないし、ましてや筋肉の問題でも反射神経の問題でもない、
あくまでも脳の中にどのような命令系統が形づくられているかの問題だという事です。
千代の富士が急に強くなった瞬間があります。
それは、立ち会いで踏み込んで瞬時に相手の前褌(まえみつ)を取れるようになったときです。
千代の富士は、弟弟子を相手に何度も何度も立ち会いの稽古をしたそうです。
どれだけ踏み込んだ時、どれだけどの方向に左手を伸ばせば
一番いい形で相手の前褌に手が届くのかを
繰り返し繰り返し研究し稽古をして自分の身体(脳)に覚え込ませたそうです。
だから、千代の富士は「昭和の大横綱」と呼ばれるくらい強くなったのですが、
その千代の富士が勝てない相手がいました。
それが隆の里です。
前褌をつかまれた後に千代の富士がどう動くかについて徹底的に隆の里は研究しました。
要するに千代の富士の脳にできたかたち(=癖)を研究したのです。
そして、千代の富士がそう動いた時に自分は千代の富士の動きを逆手に取って
いとも簡単に相手を投げ捨てる動きを考え出しました。
それを隆の里は自分の脳に覚え込ませる事で千代の富士にとって天敵となったのです。
すべての力士は隆の里が千代の富士に強い事を見ています。
しかし、それと同じ事をしない、いや出来ないわけです。
それは、隆の里のやり方を知って、それをやろうとしても、
理屈では分かっても身体(脳)が分かっていないから
身体(脳)が体得している千代の富士の技の前には手も足も出ないという事でしょう。
ところで、隆の里は千代の富士には強かったのですが「大横綱」ではありませんでした。
千代の富士の技に対する返し技は会得したのだけれど、
それは千代の富士以外には何の意味もなかったという事なのでしょう。
要するに、どれだけの種類を稽古しそれを身につけたか、
それが瞬時に体現できるだけ身に付いたのかが重要であるというのは、
漫才でも音楽でもスポーツでも同じ事だろうと思います。
これらは徹頭徹尾「脳の問題」なのです。
何をしても覚えの早い人と覚えの遅い人がいます。
時にこれをセンスと言ったりしますが、
これは脳の中にそのかたちを作る能力に長けている人の事だろうと感じます。
ただ、「才能」とか「センス」とかで表現してしまえば、そこで思考停止をせざるをえません。
だから、この「センス」を身につけさせる練習方法があるのではないかと思います。
「ことば論」の中で私は新たな英語の勉強法(らしきもの)を書いています。
あれが正しいと主張するものではありませんが、
あの方法論を表した理由というのは、
英語という体系(かたち)を脳にインプットする為に
これまでの学習法よりもはるかに効率が良いと感じるからです。
同様に練習方法がスポーツにもあるのだろうと思います。
もしかしたら身体を動かす練習ではない何かが・・・。