一期一会

人の話を聞く事ってとても大切だと最近すごく実感します。

最近になって何かを経験したというのではなく、

今まで経験して来た事がとても貴重だと最近わかってきたのです。

学生の時、私に研究の基礎を教えてくださった先生がいます。

その先生からはマンツーマンでとにかくいろいろな知識を学びました。

そして、いま調べるとその時に習った知識が書かれている書籍に出会いません。

その事だけをピンポイントに調べ回っても、

かなりの寄り道をしながらようやく古い書籍の一行に書かれている

その一文を発見するという具合です。

たった一つの事を見てもこの通りなので、

私がどこかで誰かから聞いた話や、どこかで読んだ知識というものは

それらを単体で習得する事は現実的には不可能だと言わざるをえません。

また、私は生きてきた中でさまざまな失敗をし、

たくさんのコツを身につけて来ました。

それら,自分の経験というのは自分自身では得られるものではなく

周囲の人たちやたくさんの書籍によって築かれた私の思考や論理に裏打ちされて

その経験が存在するのはもはや当然の事で、

おそらく事実だけを共有したとしても

自己の中に確立される経験はその人の持っている背景によって異なるでしょう。

 

講義や研究指導で私が学生に話す事は、

このように今となっては出会う事すら難しい知識の集合体なのです。

それは単なる知識の集合体ではなく、

その人の経験や背景により形づくられた論理体系によって意味付けされた

唯一無二の思想なのだろうとさえ思います。

それを知ってか知らずにか、以前に私のところで研究をしていた学生のM君は

私のいう一言一句をノートに書き留めていました。

恐れ多い事に彼は、彼の記述行為を

ソクラテスのいう事を書き留めたプラトンにたとえてくれましたが、

まあ、そんなに大した事ではなくとも

私の話す言葉には私の思想・哲学が盛り込まれていますし、

二度と出会えないかもしれない知識も少しは存在します。

私個人を見てもこの通りなのですから、

どの人の話すひとこと一言も、それはもはやその人からしか得られない情報ですし、

それを聞く事は、数多くの書籍を読んでも得る事のできない価値であると思います。

 

今、この年になってこのように感じますが、

若い頃にはまったく理解していませんでしたから講義中でもよく居眠りをしました。

その時の発想は、「あとで調べればいいや」というもので、

まさに、この「一期一会」を理解できていないという事です。

あとで調べられない事のいかに多い事かということを理解できていなかった訳です。

教科書が指定されている講義を受ける時などは、

その教科書を調べたら済むとまじめに考えておりました。

京大卒漫才師のUさんが重要なことを言っていました。

「教科書に下線は引かない。もし引くとすればすべてに引かなければならないからだ」と。

教科書を読めばいいのなら講義そのものは必要ありません。

その講義では、その先生が話す「哲学」を学び取るものなのでしょう。

この事を理解するのに長い時間がかかりました。

今でも、額面だけは理解したように思っていますが

実際には「あとで調べよう・・・」みたいな気持ちがないとは言い切れません。

まだまだ精進が足りないようです。