物書き

文章を書くって大変な事だと感じます。

こんなチンケなブログの文章でさえ書き続ける事が難しいのです。

私が持っている知識や思考なんて量的にはたかが知れています。

だから、単発で何か書くような場合には

おそらく多くの人が考える事とは違った事を書けると思います。

しかし、不定期とはいえ連発して書き連ねると、

同じ事を書く訳にもいきませんし、

かと言って新しい内容がぽんぽん飛び出てくる事などあり得ませんので、

すぐに書くネタに行き詰まるのです。

 

先日、とある人にブログの文章を読んで頂こうと思い

過去のコラムをワープロに落として文章に少しだけ手を入れて印刷しました。

それを再読した個人的な感想は「同じことを書いているなあ」でした。

何を書いても「かたち」に集結させる思考法は

科学や論理というよりも宗教に近いようにさえ感じました。

それは間違いなく、橋本の脳が「かたち論」に洗脳されているからですが、

あらゆる事象を「かたち論」で説明できてしまう(ように感じる)ので

これはもう仕方ない事なのかも知れません。

 

私は、英語や国語・社会の勉強に「かたち論」的方法論を導入するべきだと考えています。

「公文式(これがどういうものなのか知りませんが)」のように

「かたち式」と銘打って学習指導をしようかなとすら冗談半分に思ったりしますから。

少なくとも、たとえば「個別の要素を記憶して積み重ねる」勉強法や

「文法や方程式を覚えさせる」勉強法は百害あって一利無しだと思っていますが、

実は勉強にとどまらず、運動にも「かたち論」的方法が有効なのだろうと思っているのです。

それに関しては、漫才やゴルフなどさまざまな例を挙げて論じました。

私がそう信じているので、私にはその論理が正しいと感じ、

だから同じような事をダラダラ書き続けているのですが、

これが一般的に見てどうなのだろうか?というところには

さすがに疑問符が頭の中に浮かびます。

まあ、間違いなく「自己完結」あるいは「独りよがり」に近いのでしょう。

 

ところで、表題の「物書き」ですが、

特にエッセイや短編を頻繁に公表している作家さんの頭の中には

どれだけのポケットがあるのだろう?と感銘すら受けます。

さすがにプロの作家ですから同じ内容のものを

私のようにいくつも書くわけにはいかないでしょうし、

ただただ「すごい!」としか言いようのない才能ですね。

もう一つ、物書きの本来の能力である表現力に関しては

またあらためてどこかで書きたいと思います。

微妙な心の動きを見事な日本語で表現している北村薫さんの文章に初めて触れた時の、

日本語作文にも技術があることを再認識させられた衝撃を

私の作文能力で果たして伝える事ができるのでしょうか・・・?

本質的なジレンマを感じます。

ただ、ひとことだけ言いきれるのは、

日本の初等教育の中に日本語作文の技術を教えることは絶対必要だと思います。

文体とかの高次元の話ではありません。

言いたい事を分かりやすく文章で伝える事のできる技術です。

英語教育を小学校から導入するような議論が叫ばれています。

それを否定するつもりはないけれど、

その前に日本語教育をもっとしっかり充実させるべきだろうと思います。

我々の思考・論理の基本は我々の言語にあるのですから。