かたちとは何か?将棋

昨日、学生さんと飲みに出た。その学生さんは将棋が趣味らしく、将棋に関する面白いエピソードを教えてくれた。

彼は知り合いにプロ棋士がいるそうで、ある局面で指した一手を見た時にそのプロは「それでは負ける」と感じた。しかしその学生には理由が分からない。その一手がそれほど悪いとは感じないという。そこでプロに解説を求めたがプロは解説ができない。負けることは見えるのだが、具体的に説明ができないというのだ。実際に局面が進むとプロの言うようにどんどん状況が悪くなってくる。そうなれば学生にも「悪い手」であったということが「論理的に」理解できたというが、それは結果として理解できたに過ぎないということであろう。プロは一手一手の問題ではなく、結果として全体的にまずいと感じたらしい。学生さんは、一手一手の理屈を考えて将棋を指すが、プロは全体のかたちの中での一手の意味を考えている、まあそれだけなのだろう。

上に紹介した具体的な内容は全く正確ではないが、大まかにこんな感じのことを話していた。この話を聞いて、一手一手の合理性を論理的に積み上げて全体を考える行為が私には「分子生物学的」に聞こえる。対して、一手一手の理屈は分からないが全体として考えることが、私が議論をしている「かたち論的」に感じて仕方ない。あらゆる生命現象は最終的には分子での説明はできるだろうが、それは結果論的説明にしかならないということをこの将棋の話は示しているのかもしれない。

将棋は、具体的に考え始めると難しくなるのだが、囲碁ならもっと「全体のかたち」と「局所的な意味」の違いが明確になりそうな気がする。それは、以前にも議論したように、将棋では、たとえば桂馬という駒自体が将棋という体系の中で意味を持つので、駒が持つ意味の中に時間軸を通じた潜在的な形が存在するのに対し、囲碁では一つ一つの碁石には意味は存在せず、複数の碁石が置かれたところにかたちが作られ、意味が生じるからである。私はこれらの違いを、個体発生におけるゲノムは将棋的な側面をもち、系統発生におけるゲノムは囲碁的な側面をもつと書いた。これは側面というよりも、我々の脳がそのように情報処理をしているだけなのだろう。