論理とはなにか?

真理は我々の脳の中にある。なぜなら我々は脳が処理できる情報以外のモノを理解できないからだ。また、サピアが言うように、脳の中で組み立てられる論理は言語体系に依存するのだとしたら、我々が考える真理とは言語に依存するのかもしれない。しかし、哲学的思考が言語体系とは独立するものだとすれば、真理を求める論理体系は言語体系とは質的に独立するはずである。何にしてもあらゆる論理体系はすべてが脳の所作であることは疑いようがない。とすれば、現存する論理体系をその構造から分類し高次の体系を構築することにより脳の本質的なかたちを見出だすことはできないだろうか?先端機器を駆使したら脳の活性化している部位はわかるだろうし、本能的・直接的な感情と脳機能との関係性もわかるようには思うが、そこから脳の働きとしての論理体系に結び付くような気がしないのだ。ただ、論理は脳にあるのではなく脳をハードとし、その上で機能するソフトとしての何らかの体系に依存するとすれば、脳の働きは論理体系の単なる受け皿として考え直さなければならない。

ところで、あらゆる体系は脳の中で同格として独立して存在すると考えればどうなるのであろうか?哲学的思考は、言語に表すことが難しく、言語にすると何か違ってくる。また、言語として表された哲学的思考は、なかなか理解することはできない。だから哲学は難しい。しかし、哲学の論理体系自体はわかってみれば難しいものではない。しかし、いざ分かった事を言葉にして他人に伝える事は難しい。だから、むしろ脳の中では明確に形づくられている思考の論理を、言語というまったく異なる論理に翻訳する際にさまざまな齟齬が生じ、理解を難しくするので、結果として「哲学は難しい」となるのではないのだろうか?この考え方を推し進めれば、思考が論理に依存するという立場を変更するしかないが、実際にはどうなのだろう?

もしかしたら、言語に依存した思考をするかぎり新しい論理体系を構築することはできず、言語からの脱却によってのみ新しい論理体系が誕生するのかも知れない。言語の関係性を脱構築しなければあらたな関係性は構築できない、ただそれだけなのだろうか?

もう少し考えてみよう。数学はおそらくもっとも単純な論理体系であろう。さて、数学者が数学について思考を重ねるときに(たとえば何かの問題を考えているときに)、言語的な思考が介在するだろうか?これはおそらく絶対にありえない。ここまで単純化すればわかるのだが、「哲学と言語」あるいは「ある言語と別の言語」といった論理体系間の話になると、とたんに思考が混乱する。言語を無視できなくなるのである。同様の混乱が生物学にも起こっている。たとえば物理学には数学の論理による思考が必須であり、化学には化学式のような論理体系が必須であって、そこには言語の論理体系が存在できる場所はない。生物学(生命)にも特有の論理体系が存在するのは、その定義からも自明のことであろうが、生命について思考する際に我々が用いるのは言語の論理なのである。言い換えれば生命の論理(すなわちゲノムの論理)を解くための武器として言語の論理しか我々は持っていないのである。これが現代生物学の致命的欠陥なのだろうと思うのだが、穿ち過ぎた考えなのだろうか?