漢字

近年,漢字ブームがきているらしく、クイズ番組でも漢字の読み書きが出題される。その際に、「漢検○○級」という具合に難易度を表現している。

以前にも書いたと思うが、漢字と日本語の間には相関など無い。日本語は本来がやまとことばなのだ。そこに大陸から漢字が輸入され、やまとことばの意味に近似する漢字が表記として用いられたに過ぎない。だから漢字表記は原則論を持ち出せばすべてが当て字なのである。もちろん本来の漢字の発音に近い「音読み」ができ、音読みを用いた日本独自の新たな漢字表現も生まれて日本語の中に漢字がとけ込んでいる事は事実なのだが、でも、漢検一級の問題などは、明らかに当て字であり、それを知っている事と知性の間に差を感じずにはいられない。

この考え方の大元には英語教育と同じ臭いを感じる。英語と日本語は全く異なる論理体系であり、全く同じ意味を異なる表現にしているのでは決してない。だから、英語を日本語に訳す場合には、その英語が表現したい根本の意味をしっかりと捉えた上でそれを表現する最も近い日本語を作る事でしかない。しかし、日本語=英語みたいな感覚を平然と説いて、その間に「文法」という名の方程式を打ち立てて、たがいに完全な翻訳が可能だとしてしまう。この感覚で、この読みを漢字にすればこれになるって、さも決まり事のように教えてはばからない。でも、本来の趣旨からいえばこれは違うと言わざるを得ない。やまとことばでは潜在的に同じ意味に切り出される単語が、それを表現する中国語が異なるという理由で異なる漢字を当てられている例など腐るほどある。それを指して正しい間違いをいうことなど無意味な行為だと思う。言語が異なれば意味として切り出してくる範囲も異なる。異なる切り出し方をしたら、日本語で同じ範疇の言葉が、他の言語では全く異なる範疇の言葉で表現されるものなのである。

中学校の時の経験だが、What shall I do?を和訳せよと問題が出たので「私はどうしたら良いんでしょう?」とかいたら○では無く△だった。その理由は「良い」と言う意味の英語が本文には無いからだそうだ。中学生ながらこの先生を「バカ」だと思ってしまった。

ついでにもう一ついえば送り仮名も、文部省が勝手に正解を決めてそれ以外を×にするという訳の分からない教育方針を示したものだから「これ以外はすべて間違い」という感覚が国民に根付いたが、送り仮名は使う人の好みで一定の範囲で変えてかまわない。私は「送り足りない」よりは「送りすぎる」のを好む。「行った」は「いった」と読み、「おこなった」と読ませたい場合には「行なった」と書きたい。文脈で理解できると言われる方もあろうが、たとえば「犯人は行った。」のような文章の場合には、次に続く文章によってその読み方は変わらざるを得ないわけで、とっさに読み間違えて、あわてて読み直す事もよくあるから、送りすぎくらいでちょうど良いと私は思っている。横溝正史の「悪魔が来りて笛を拭く」なども、中学生の頃に「くるりて」と読んで恥をかいたものだが、「来たりて」と表記してくださっていたら間違いなく読めた。まだ「きたりて」ならなんとか理解もできようが、「きたる」の場合はどうするのであろうか?「悪魔が来る」と書けば筆者が「きたる」と読ませたいのか「くる」と読ませたいのか全く分からない。まあ、この辺りは個人の好みに依れば良いのだろう。ただ、問題はこの問題を「どちらかが正しい」として、その理由を「教科書で習った」とするのであれば、これは国語教育の大きな間違いであろうと感じる。これと同根の問題が英語教育にもあるのは間違いない。私はそう感じてならないのだ。