推理小説

一般にどのようなタイプの推理小説が好まれているのだろう?

私は、犯人がトリックを労し探偵がそれを暴くものよりは

普通の犯罪(別に犯罪でなくても構わない)で証拠を丹念に積み重ね

それを論理的に並べて真相を解明するものが好きだ。

 

ただ、事実を並べて真相を言われるだけなら何も面白くないのだが、

おそらくそれでは推理小説にはならないだろうからまあいいだろう。

一般に「どんでん返し」と呼ばれているものに分類されるのかもしれないが、

事実を並べたら一見ある方向を指し示しているように見える、

あるいは何らかの先入観からどうしても一定の結論が見えているような場合に、

それまで得られた証拠を論理的に並べ替える操作だけで

全く異なる状況が突然現れるようなものが好きなのだ。

 

その状況を構成する要素は何も変わらないのに

その関係性を変えるだけで構図が一変するというのに快感を覚える。

だから、途中で新しい証拠が出て来てそれで問題が解決するのは反則だと思う。

すべての証拠は最初から目の前にあるのに、

そしてそれは最初から一つのことを指し示しているのにそれに気付かない。

しかし、ある見方をした瞬間にすべての意味が変わりあっと驚く真相が目の前に現れる。

そんな推理小説が好きである。

 

これは、私の研究に対する嗜好にも通じている。

最先端の機器を駆使して何かを探る研究よりも

ヘタをすれば中学校の理科室でもできるような実験をもとに

思考によって一つの論理を組み立てる研究に憧れる。

だから清水さんのクラゲの話に感動するのである。

 

私は「かたち」の話を書き続けている(つもりである)。

かたちとは、要素同士の関係性のことであって実体はない。

これは英語よりは日本語の「かたち」に近い感覚だろうと「かたち論」に書いた。

我々はヒトのことを「人間」と言うが、英語ではhuman beingである。

beingという「実体」を意識するか、人の「間」を意識するかの違いであろうと書いた。

これだけを取れば単なる言葉のあやで済む話だが、

おそらく日本語の感覚は「かたち論」の感覚に非常に近いのだろうと思う。

 

ちょっと話が横にそれた。

推理小説で、すべての証拠が存在し、

それらは一定の並びによって関係性が確立し何らかの意味を与えられているのだが、

その並びが完全に変わったら互いの関係性も完全に変化する。

あるものの意味とはア・プリオリには成立しない。

意味とは周囲との関係性によってのみ規定されるわけだから、

関係性が変われば、一つ一つの証拠が持つ意味も自ずから変わる。

何の意味もないと思われていた証拠や証言が、ある瞬間に重要な意味をもつ。

「あっ」と叫ぶこの瞬間がたまらないのである。

 

映画で言うと、ちょっと古いが「スティング」は素晴らしい。

この映画を見て頂けたら橋本の好みがばしっと分かると思う。

似たようなどんでん返しでも「ユージュアル・サスペクツ」は良くない。

この映画は多方面から高い評価をえているので、

ここで私が「良くない」と言っても、それはもちろん個人の嗜好として「好みではない」というに過ぎない。

ここでネタバレをしたらまだ見ていらっしゃらない方に申し訳ないので理由は書かないが、

ミステリとしたらアンフェアだと感じるのがその理由であるとだけ書いておこう。

結末までの「ネタ振り」が完全に不足しているのである。

脈絡もなく新しい「証拠」がいきなり結末に出てきて問題が解決しても私は快感を得られないのである。

 

ゲノムがかたちであると私は考えている。

ヒトを規定する遺伝子などないと真面目に思っている。

極論すれば、チンパンジーの遺伝子とヒトの遺伝子を一つ一つすべて入れ替えても

ヒトゲノムはヒトゲノムであろうと思っている。

全く同じ構成要素の関係性を変えるだけで全体のかたちは変わり、

個々の構成要素の意味も変わる。

これがゲノムなのではないかと思っている。

進化の過程で新しいゲノムが生じる瞬間は、

遺伝子たちが織りなすゲノムというストーリーのどんでん返しであると思っている。

私がどんでん返しの推理小説を好むのは、ゲノムに刻まれた必然としか言えないのだろう。