かたちとは何か?その3

鉄道会社には「スジ屋」と呼ばれる人たちがいるそうだ。

事故や故障などで乱れたダイヤを瞬時に修正できる人たちのことを指すらしい。

ダイヤグラムは見ただけで頭がくらくらする。

あれだけ緻密に出来上がっているものがひとたび狂えば

それを回復させるのは至難の業だろうと思う。

どこかで電車が止まっているということは

時刻が狂うだけではなく、車両自体のやりくりも狂うわけで、

いなくてはならないところに電車はおらず、

いてはいけないところに電車が溜まっているとした場合に、

それらをいかにして正常に戻すのだろうか?

ゆっくり考えたらもちろんできそうな気はする。

一度新たに運行表を組んで実際に紙の上でで動かしてみる。

そうするとおそらく齟齬が生じてくることだろうから

それを新たに修正して・・・しかし、この修正の結果として

それまで生じていなかったところにしわ寄せが来るかもしれないし・・・、

まあ、このような試行錯誤を繰り返せば何とかなるだろうとは思う。

この過程は、ルービックキューブにも似ているように思う。

ルービックキューブの一面だけをきれいに合わせられても

他のところを合わせようとするとその一面はものの見事に崩れるわけで、

全体のかたちを把握できていないと完成させられない。

 

これをスジやと呼ばれる人たちは瞬時にやってのけるそうだ。

出来上がった運行表を見ればもちろんすべてにおいて説明ができる。

各所各所が論理的な矛盾などなくきれいに組み上がっているはずだ。

しかし、その各論を論理的に考えて組み上げていったのではない。

全体のかたちをあるべきように仕上げた結果として

枝葉のどの部分を見ても論理的齟齬が生じないように組み上がっているのである。

 

これを考えていると言語学を思ってしまう。

言語というきれいに組み上がっている論理体系が存在して、

それの枝葉末節を説明するようなかたちで文法があるのだが、

文法とはあくまでも後付けの論理であって

文法から言語体系が成立することはあり得ない。

そこに存在する「かたち」「体系」「秩序」・・・なんと言ってもいいが、

それを成立させるのはそのかたちを分析する手段としての各論的論理ではなく、

そのかたちが存在する為には必然的に内包せざるを得ないものこそが論理であり、

この論理こそが「かたち」の本質であり実体なのであろうと思う。

私は、かたちにとって重要なのは、構成要素自体ではなく要素と要素の「間」だということがある。

ようは「関係性」という意味合いを表現したいのだが、

「間」とか「関係性」ではまた意味合いが違ってくると感じる。

 

あるものの意味は相対的にしか規定できない。

周囲の要素との関係によってしかそのもの自体の意味は現れて来ない。

こう書くと、その要素は流動的だが、周囲はしっかりと決まっているような錯覚に陥るが、

その周囲の要素も同様に確固たる立ち位置を持っているわけではない。

立ち位置は、要素同士が互いに互いを固定することによってしか決まらない。

その要素を対象としてみるから、相対的に他が強固に確立しているような気になるだけの話である。

 

生きものの形態を観察する時にしばしば「固定」という作業を行う。

一般には「ホルマリン固定」がよく知られていると思うのだが、

瞬時にカチンコチンに固まるような固定という言葉が持つニュアンスとは

おそらく違った意味で使われていると思う。

生物材料を固定することとは、そこに存在する分子同士を架橋することである。

とにかく隣に存在する分子に橋を架ける。

ありとあらゆる分子同士が架橋されると、

結果としてその構造が本来持たなければならないゆらぎがなくなる。

だから、互いの物理的位置関係に変化が許容されなくなる。

その構造が「固定」されるということは、

構成要素感の物理的な関係性が「固定」されるということに他ならない。

ある場所に存在する要素の物理的な位置が隣の要素との位置関係によって決まり、

隣の分子の物理的位置もその隣の分子との関係によって決まることを

この「固定」という作業は明確に示しているように感じる。

だから形態(かたち)を扱う学問は「固定」をして時間を止める手法を必要とするし、

機能(はたらき)を扱う学問は、時間の流れを必要とする事実は当然のように思える。