シニフィアンとシニフィエ その7
さて、ここでひとつ問題がある。たとえば日本人とアメリカ人では概念の切り出し方に違いがあるのだ。だから、ある意味を持つ日本語があるとしても、英語ではまったく異なる複数の英単語がその意味を担う。もちろんその逆もあって、英語ではひとことで表現する概念が日本語の複数の概念に相当することも普通にある。これは表現方法の違いというのではなく、概念の切り出し方の違いに落ち着く。ある英単語の意味を辞書で探した時に、いくつかの日本語が書かれているのだが、これらは日本語的にはまったく異なる(似て非なる)意味の場合がある。私は”frequency”という言葉を例に講演などで話す。日本語の「頻度」と「周波数」はともに”frequency”という英語で表す。日本語の「頻度」の意味合いで使われている”frequency”を「周波数」と訳したら日本語は意味をなさなくなる。「ことば論」では「生(なま)」という日本語について少し議論しているが、同様の例は、英和辞典や和英辞典を開けばいくらでも見つけることができる。だから、”I love you.”を「月が綺麗ですね」と訳したって構わないし、”Good luck”を「頑張って」と訳すことは正しいのである。言葉の意味を一義的に決めるのは、風俗習慣・宗教感・倫理観などその言語が使われている環境であるとしか言いようがない。
たとえば基本的人権も自由も公平も、もともと日本にはなかった概念である。そもそも日本にはない概念を表現する言葉など存在するはずもなく、その概念が同時に西洋から輸入され、そこに訳語が与えられて日本で独自の解釈が生まれたということである。「基本的人権」は唯一絶対の神の存在が前提にある概念だし、江戸時代に「自由」や「公平」の概念があったはずもなく、これも明治になって輸入された概念でありことばである。独裁国家では現在に至ってさえこれらの概念は存在しないだろう。「文化culture」って言葉はnatureの存在があって初めて成り立つもので、その語源は「耕す」にある。人間を含めてこの世界にあるものすべては神が創り出した。それをnatureと呼ぶ。だから、”nature”を「自然」と訳すのも実は正しくはない。対して、人間が作り出すありとあらゆるものをcultureと呼ぶ。要は、全能の神が作り出すもの以外(人間が作り出すものすべて)を意味する言葉がcultureなのだが、背景に唯一絶対の神を持たない日本語において「文化」はまったく異なる意味合いに変化した。というか、そもそも「神」という概念そのものが日本と西欧ではまったく異なる。唯一絶対で全能の神と八百万の神は互いに相入れるものではないだろうし、「祈る」という言葉自体もその本質的な意味は言語によってまったく異なるとしか言えない。