seinと存在
“sein”と「存在」は同じ概念として議論できるのだろうか?と常に疑問を持っている。いや、別にseinだけの話ではない。たまたまハイデガーを読み返して、常々思っていたことを書き始めただけである。概念を表現する他のあらゆる外国語に関して同様に思っている。
seinの意味を規定するのは一義的にはドイツ語の文脈である。だから、seinを含む複数の文脈によって意味の範囲が狭められるのだが、その「seinを含む文脈」の成立には伝統文化や宗教観・歴史観が大きく関わっている。だから、伝統文化・宗教観・歴史観が完全に異なる言語である日本語としての「存在」の意味が、日本語の中でseinに最も近い単語として選ばれる以上の同一性を持てるとはまったく思えない。
以前にも書いたが、「基本的人権」は「唯一絶対の神」の存在無くしては成立し得ない概念だったはずなのだが、その概念が日本に輸入され、日本語の中に居場所を見出した時に、その意味は本来のものとは決定的に違ってきた。このような質的問題が哲学・思想の中には常に存在する危険性がある。
たしかに、その言葉の意味を超えたところにある思想を抽出し、哲学的に分析することには意味がありそうにも思うのだが、その分析するという行為にすら言語が介在する。思索の論理は言語の論理体系に依存するので、当然のことながら、論理の方法論は言語によって異なる。さらには、言語的思考の背景には歴史や文化が嫌でもついてくる。自己の存在を「神との相対化」によって規定する体系と、「他者との関係性」によって規定する体系との違いで、社会・組織や個人の捉え方がまったく異なるはずである。
あるいは、「神の存在について哲学する」と我々日本人が聞けば、「神が存在するか否か」に近い問題提起を想定すると思うのだが、西欧哲学ではまったく異なる。すなわち、「神が存在しているのは疑いようなのない事実」なのだから「神が存在するか否か」という問いかけ自体がありえない。こういった、根源的な背景が異なるときに、私たちは西欧の思想の本質的な部分を理解できるのだろうか、といつも疑問に思うのである。
ハイデガーを読むと、いつもこのような疑問で読むという行為が妨げられる。さらには、ハイデガーは、自分勝手に新しい言葉を作りすぎるから、その意味の捉え方で悩んで思考が進まない。