英訳と和訳 追記

先日、英訳と和訳について書いた。「あれでは伝わらなかっただろうな」とずっと思っている。で、なにがマズかったのか考えると、タイトルの「英訳」あるいは「和訳」という言葉に問題があることに思い当たった。

英訳あるいは和訳という言葉が指し示すことは、日本語を英語に、あるいは英語を日本語にする作業だろう。それはそのままで構わないのだが、問題は、例えば論文を読んだり書いたりする作業の中に「英語を日本語に」「日本語を英語に」することが含まれていないのだ。論文を読む時には、そこに書かれていることがらを頭の中に描くのだが、そこに日本語は介在しない。というか、いかなる言語も存在していない。論文を書く時にも、頭の中にある「景色」を適切な英語にするだけであって、その過程に日本語はない。こう考えると、普通に日本語の作文をする時も、頭にある風景を日本語という論理体系で表現しなおすだけであることに気づく。頭の中にある日本語を文字に起こす作業とは一線を画するわけである。だからそこには日本語作文の技術が必要となる。日本語を話すから日本語が書けるわけではない。先日の文章にも書いたことだが、論文を書く時には頭の中にある事柄をもっとも適切に表す英語を探すわけで、言ってみればこれは日本語作文の作業と何ら変わることはない。ただ、私たちは日本語の表現を、英語よりもはるかにたくさん知っている。だから、日本語作文の方が楽なイメージになるのだろうが、いやいやそんなことはない。日本語は難しい。人様に読んでもらえる日本語の表現を創造することの苦労は並大抵ではない。いくら書いても「下手だなあ」と我ながら思う。作文の技術とは、どれだけたくさんの表現を自分が知っているかである。その中から、もっとも適切な表現を選択できる能力である。これは生成AIによる作文と基本的には同じ作法である。ここに言語の違い(英語とか日本語とか)は関係ない。

「英訳」あるいは「和訳」にしても、英語(日本語)を直接的に日本語(英語)にしようとするから難しい。現実的にそれは不可能だろうとすら思う。英語によって表現された文章の意味を理解して、その意味にもっとも符合する日本語を選択する作業が和訳ということである。だから、夏目漱石のように”I love you”を「月が綺麗ですね」と訳したって構わない。