マダニ

これまた極端な暴論だろうと思うが、先日の続きで書いてみたい。

獣医師がマダニによる感染症で死亡という記事を読んだ。患者(患畜?)から、SFTS(重症熱性血小板減少症候群)に感染した獣医師が死亡していたとのこと。そういえばこの数年、マダニによる感染症に注意する記事をよく目にするような気がする。この記事からいつものように妄想を逞しくして考える。

私はもう何十年も年に最低一度は山に入り、藪の中を這いずり回って山菜などを収穫している。その際にさまざまな虫に噛まれるし刺される。あるときは眉のところに小さな甲虫が張り付いていて、取り払うと出血したので血を吸われていたのだろうが、その後数週間はその辺りの腫れが引かなかった。おそらくは何か毒素でも注入されていたのだろう。それ以外にも、その時はまったく気づかない程度に虫に刺されたような跡が身体中に見つかる。だから、普通にダニにも噛まれているだろうし、それ以外の害虫にも無数に噛まれていることは想像に難くない。

何度か書いているように、小さい頃から泥にまみれて遊んでいた。山登りや沢登りも普通にしていた。沢登りとは、下流から上流に向かって川を上り詰めていくことで、最終的に川は消滅しただの湿地から泥の状態になり、その上は藪である。もちろん道などはない。藪を掻き分けてとにかく上へ上へと登っていく。するとそのうちに尾根道に出る。そして尾根筋を歩いて下山するのだが、六甲山脈は尾根筋に道路が通っているし、山頂付近はケーブルカーやロープウエイ、あるいはバスや車で登れるので普通の観光客がたくさん歩いている。だから、沢を登り詰め薮を掻き分けて尾根筋に出ると、ハイヒールを履いた綺麗な女性が歩いていた。女性から見れば、何もない林の中からガサガサと音がしたと思ったら汚い男が出てきたのだからさぞかし驚いたに違いない。だって、道のない林や藪から出てくるのは猪や熊などの野生動物しか考えられないだろうから。

で、とにかくあらゆる「虫が媒介する感染症」にさらされる生活を私が送ってきたことは間違い無いだろう。還暦を超えた今でも山で虫に刺されまくっているし、わかりやすい虫だけではなく泥の中に生息する細菌などにも触れている。タラの芽を取ろうとしたら、あの棘で手は傷だらけだ。その傷が治らないうちに筍を掘って泥に手を突っ込んでいる。しかし、未だかつて山に入った後になんらかの症状が出たという経験はない。何が言いたいかはご想像通りである。上に書いた獣医師の場合と単純な比較はできないことは承知している。この獣医師はナチュラリストであり、私以上に自然の中で日々戯れていたのかもしれない。もっと言えば、獣医師という職業なのだから、もしかしたら私よりも日常的にマダニ感染症にさらされてきて普通の人以上に免疫を持っていたにもかかわらず、それでも感染して死に至ったのかもしれない。ただ思うのは、一般論として日常的にできる限り多くの病原体に触れておくことが重要ではないかということである。もっといえば、軽い病気なら発症しても良いと思う。病気を恐れ、あまりに潔癖に殺菌や消毒を徹底することで、何かがあった時の抵抗力を得る機会を失っているように個人的に感じている。

こういう議論は、ケースバイケースであることは承知している。だから、一つの原因や結論に落とし込むことに意味はないと思う。潔癖を徹底して何にも感染せず無事に生きていく人もいようし、日頃から野山をかけずり回っている人が感染症で死に至ることももちろんあろうと思う。ただ、それでもやはり日常的に「自然」に触れて免疫を鍛えることは重要だと考えている。感染を怖がらずに、小さな感染であればむしろ歓迎するくらいの感覚を持って生活するくらいでちょうどいいと真面目に思っている。食中毒にしても同じものを食べて発症する人もいればしない人もいる。コロナなどの感染症の患者と同じ空間にいても感染する人もいれば感染しない人もいる。「新型コロナ」というのだから、「旧型」のコロナウイルスもいるはずだ。そして、たとえ新型であっても、旧型と同じあるいはかなり似通った構造も持っているはずだし、日常的に「旧型」のコロナウイルス(いわゆる普通の風邪)に感染していれば、たとえエピトープにはなりにくい部位であっても新型と共通の構造に対する免疫を持っていてもおかしくないだろう。こういう理屈はともかくとして、たとえば東南アジアや中南米では生水を飲まないように注意喚起されるし、実際に生水に気をつけていても油断してホテルのバーでオンザロックスを飲んだら(生水を凍らせた)氷から食中毒に感染することもあると聞く。しかし、よく考えてみると、この「生水」は現地の人たちは普通に飲んでいてなんともないはずである。感染(発症)するかしないかについては当日の体調なども大きな要因なのは間違いないとは思うが、同時に「免疫」を持っているかどうかも関わっていると勝手に信じている。生まれたばかりの赤ちゃんはいかなるものにも免疫を持っていない。当然である。そういうものにまったく出会っていないのだから。だから赤ちゃんや小さな子供はしょっちゅう発熱する。こういうことを繰り返しながら免疫を獲得していくのだ。だから、大人にとっても日常的にどれだけ免疫を鍛えているかが重要ではないかと真面目に思っている。大人になってからも日常的にさまざまな病原体に擦れておくことが大切ではないかと考えている。個人的な思い込みであり新興宗教のような信念かもしれない。

こう考えている理由の一つとして、人間はやはりこの地球環境で生きてきたという考えが根っこにあるのだ。この自然の中で進化してきた。細菌やウイルス、あるいは虫や獣が媒介する病原体に日常的にさらされて生きてきた。だから、人間が生きていく上でこの環境は前提条件にも近いものだと考えて間違いはない。殺菌・滅菌・消毒・除菌などなどの行為が日常生活に採用されるようになったのは、おそらく長く見積もってもこの半世紀のことだろう。生物はその環境の中で進化してきた。進化とは取りも直さずゲノムを環境の中で洗練することだろうと思っている。その環境に不適切な変異は淘汰し、不適切ではない変異は残る。ここで重要なのは、残るのは「淘汰されない変異のすべて」であって「有利な変異」ではないことである。生物はこの環境に適応してきた。だから、短絡的に「感染が悪だから」として病原体に触れないような生活様式にするとしたら、それは環境が変わったこととなる。本来出会うべき病原体(病原体に限らずあらゆるもの)に出会わない生活をゲノムは想定していない。だから花粉症の人が増えるのだろうという議論も出てくるのだろう。環境下には微量毒素(一定以上の量を摂取すれば毒となる物質)に溢れている。それらに触れて生活してきたし、その環境に適応してゲノムが構築されてきた。だから、微量毒素を排除することが健康に悪いのだろう。同様の論理で、一定量・一定頻度で病原体に触れることで健康を得ることは何も不思議な議論ではないと考える。

過度なこと、例えば過度に病原体に接するような生活をするとか、過度に潔癖な生活をするとか、は論外であるが、ではどちらに寄せる方がいいのかといえば、昔の生活に戻すことが望ましいように感じる。現在は、すこし潔癖すぎるし、病気や怪我を必要以上に恐れすぎているように思えてならないのだ。

くりかえすが、冒頭の記事の獣医師とここに書いた環境との関わりの重要性とは何も関連はない。ただ、こういうことを書かせるきっかけになっただけのことである。それにしても、かなり無茶苦茶な論理を展開したなあ。