最近の話題
いつも色々と考えている。「考える」というと高尚なことに思えるかもしれないが、ただ様々な事象にごちゃごちゃ意味付けしようとしてるだけである。
で、問題は最近のテーマが公表しづらいことばかりなのだ。いろいろと考えることはある。自分の論理で意味付けしようとする。でも、もはや私の論理では意味づけができないことが多すぎる。「民主主義の限界」とか「法治主義の限界」とか極端な言葉を使うつもりもないのだが、それでも、法律の成立の前提として個人の倫理観が置かれていることは論を俟たない。ここで、「法に触れていない」とされてしまえばどうしようもなくなる。以前は、こういう理屈を盾に取るのは無法者、ヤクザや詐欺師など、に限られていたように感じる。でも、いまや政治家までもが倫理観や法の精神を無視して、法に触れていないことを主張することで自己を正当化する。立候補者の事実無根の話や単なる噂話に過ぎないレベルの内容をネットにあげる。間違いなく個人の意思に反して故人のヌード画像を公開する。匿名で他人を誹謗中傷する。たとえ相手に大きな損害を与えてもその罰は損害に比べて大きくないし、損害賠償も資産がなければ回収できない。やられた方が泣き寝入りである。そんなことは昔からあったと言われるかもしれないが、以前なら社会の倫理観や法律に依らない社会的規律によってある程度は抑えられていたように思う。ただいまは、この「社会的規律」が「表現の自由」とかのよくわからない「権利」によって侵害されている。古来日本人は「お天道様が見ている」と考えて己の言動を律してきたと思う。諸外国ではこれが神様に変わるのだろうが、法律よりも高いところにある美徳が精神を支えてきた。その基準が「最低限の道徳」である法律のレベルにまで下がってきた。
法律は、その立法の精神が重要なのであって、その精神に触れている行為は「違法」だろう。ほとんどの法律は全ての状況を想定して書かれてはいない。だから抜け道を探せばいくらでも見つかるだろう。多くの場合、法は個人の倫理観に依存していると感じる。だから、その倫理観が崩壊したら法治主義は成立しえない。もし、こういう細々としたところまで法で支配しようとすれば、国民は自分の首を絞めることとなる。だからこその道徳だし倫理であろう。
もう、こういうことを言うこと自体が時代に合っていないのかもしれない。だから、最近は書いている文章の打率(書いたものの中で公表できるものの割合)がかなり低い。ただでさえ長打を狙える力はないので、バントヒットや内野安打でコツコツと打率を重ねる、あるいは敵失や四死球で出塁率を稼ぐ程度の人間なので、いくら書いても没になっているこの頃を考えると二軍落ちも近いなあと思う。春なのに「唇寒し」だなあ。