神経堤か、それとも神経堤細胞か?

脊椎動物の出現とは神経堤細胞の獲得である。ちょっと乱暴な表現になるかもしれないが、このように私は考えている。遺伝研でセミナーをした時に、「神経堤細胞が重要なのではなく神経堤が重要ではないか」という議論が出た。個人的には、神経堤という構造には大した意味はないのではないかと思っている。仮に神経堤の構造が生じたとしてもそこに存在する細胞が分化全能性を有さなければ脊椎動物は出現できないのはおそらく事実だと思う。だから、「神経堤細胞」とは「神経堤の細胞」というよりは、「初期発生の比較的後期まで分化全能性を維持している細胞」という方が正しいように思う。

そう言えば、かなり昔から原索動物のホヤに神経堤の原器のような構造を探すことが行なわれている。とりも直さず、原索動物(無脊椎動物)から脊椎動物に進化するときの原因を見出そうとする試みだ。私はこれにはかなり否定的な態度をとっている。神経堤に似た構造があろうとも、そこに自動的に多分化能を有する細胞が出現することは論理的にはあり得ないからである。あり得ないというよりも、細胞が未分化でい続けられる意味や細胞が分化全能性を有する意味が、神経堤という構造と論理的に全く別の議論になる。

だから、どうやって神経堤様の構造が生じたかを探るより、どうやって初期発生の後期まで特定の細胞が未分化性を維持し続けらるようになったのかを探る方が重要ではないかと考える。今までに何度も書いているが、卵黄の獲得によって卵の大きさが爆発的に大きくなり、結果として原腸胚の細胞数が爆発的に増えたことが「万能細胞の出現」の原動力だと個人的には思っている。