理解することとは

教科書には下線や蛍光ペンでマークする箇所は存在しないという。もしマークするとすれば、すべての文章に下線を引かなくてはならないからだ。少し考えたらわかるのだが、教科書の1ページに書かれている内容を本当に解説するとすれば、最低でも数十ページは必要となる。下手をすれば、一行の説明に数千文字を要することも珍しくない。私の専門分野を見ても、高校の教科書ではせいぜい4ページに収められているが、専門家である私が教科書の当該箇所を読んでもまったく理解ができないくらいに短縮されて記載されている。だからこそ、授業があるし参考書が存在するのだ。

さて、標題の「理解」についてだが、これは「暗記」とは明確に一線を画する。もちろん、内容を理解するためには暗記は必要であろうが、暗記をしたからといって理解したことにはならない。教科書の内容を理解すれば大学入学試験に合格できるわけだが、教科書は、たとえ丸暗記してもおそらくは何も理解できないくらいに短く書かれている。だから、内容を理解して初めて暗記することに意味が生じる。以前にも書いたが(たとえばこれ)、試験会場に教科書を持ち込んだとしてもたぶんまったく役立たないだろう。なのになぜ、「暗記すること」が「理解すること」と誤解されてきたのだろう?これは、教える側の問題も大きいと感じる。まずは、試験会場に教科書を持ち込んで点数を取れる問題を作ることが考えられる。要は、何も理解していなくても教科書に書かれている単語を書き写せば点数が取れるとしたら、試験で点を取ることを理解することと考えている生徒にとっては「暗記すること」が学習となる。ただ、真の理解を問う問題を作成することはかなり困難であろうし、労力が必要であるため、どうしても暗記した量を問う問題が作られがちになるのだろう。

正しく理解させる授業を行なうことにもかなりの技術を要する。そのことの本質的な部分を論理立てて説明し理解してもらわなければならないからだ。ただ、上述のように、本当に理解させるには一つの単語だけで1コマの授業を必要とするかもしれないし、現実問題としては実現は不可能であろう。だから、教科書の内容を論理的に理解させる最低限の授業が求められるわけである。私のような研究者に語らせたら何時間でも話し続ける内容を数十分で語らなければならない。

こういうことを考えていると絶望的な気持ちになるのだが、そうも言っていられない。というわけで、一つの提案として、「理解度を問う問題」ではなく「理解させる問題」を作ってみたらどうだろうと考えている。

(どこかに続きます)