世紀の大誤審

オリンピックでの熱戦が続いていますね。

さて、標記の言葉ですが、本当に毎日のように目にします。「世紀の」ってことだから「百年に一度」でしょう。それが数日の間に何度も出てくる。面白いなと思ったのは「号泣」です。号泣って「泣き叫ぶさま」を表す日本語のはずですが、もう何年も前からちょっと涙を流すくらいで(場合によったら実際に涙が流れていなくても)この言葉が使われています。だから、本当に「号泣」した女子柔道選手の場合には「大号泣」なんて言葉で表現されていました。そういえばボージョレ・ヌーボーも、毎年毎年「この十年で一番」みたいな表現がなされていますよね。

目を引きたいのはわかりますが、これをやってしまうと逆に「本当に伝えたい時」に伝えられなくなってきます。私はよく書きますが、読点がまったくないと日本語は読めませんが、読点ばかり打つと、読点がまったくない場合と同様に日本語は読めません。必要なところに読点を打ち、不要なところ(絶対に打ってはならないところ)には読点は打たない必要があります。要するに、読点がたくさんあるのと読点がまったくないのは同じである、不要な(あってはならない)読点によって必要な読点の重要性が侵害されているということです。本当に百年に一度のことが起きた場合に、それを表現するにはもっと極端な言葉(例えば千年に一度とか)を使うしかなくなってしまいます。論文を書くときに私は「強調する単語(端的にいえばveryのような)」はほとんど使いません。その理由は、本当に強調したいときに困るからです。その瞬間に注目を集めたいからと過剰な表現を用いることで自分の首を絞めているように感じるのは私だけでしょうか?