彫刻

狭義の「彫刻」とは「石や木材などの素材を彫り込んで形象を作るもの」である。「狭義の」としたのは、粘土などで徐々に肉付けして作るものも広義には「彫刻」と呼ばれる(狭義には「塑造」)からなのだが、語義(漢字の意味)から考えても、やはり「彫り刻み出される」ものが「彫刻」だと感じる。

さて、この数年、私が考える進化や初期発生は「彫刻的」である。ただ、やはり進化にしても初期発生にしても「塑造的」であるという理解が一般的であろう。要は、最初にあらゆる可能性を持っていて、そこから限定的に能力を制限していく過程が発生であり進化であるのではないかと私は考えているのだ。

この話は、最近のブログでもあるいは「形についての小論」の中でも議論している。もちろん、二項対立の議論ではなく、両者が同時に存在しているのだろうと思うのだが、どちらが主導的かと言うところで「塑造」ではなく「彫刻」に近いのではないかと思うのだ。で、またここで繰り返し何を書きたいのか?だが、単に「彫刻」ってたとえがすごく良いなあと思いついたから書いてみたに過ぎない。丸太を削るとして、削りようによってどんな形にもできる。あらゆる可能性が丸太には存在している。その可能性を削りながら制限していく過程が私の考える進化や発生現象の本質に似ているのではないかということである。これは、彫刻を「作り上げる」プロセスと見るのではなく、可能性を制限していくプロセスと捉えることにもなる。あくまでも足し算で何かを作り上げる塑造と比較しての彫刻である。では、「なんでもありか?」だが、それはもちろん違う。彫刻に例えるなら、削り終わって完成した形としてバランスが悪いとか、構造的(物理的)に弱いとかがあれば、その彫刻は壊れる(残れない)。これが淘汰圧である。この淘汰圧によって、ある程度「形」のレパートリーは決まるのだろう。