ご遠慮ください

「ご遠慮ください」を「遠慮しながらならやってもいい」と考える人が増えているらしい。「下がって頂いてもよろしいでしょうか?」「下がっていただけたらありがたい(嬉しい)です」も「下がらなくても構わない」と捉える人が少なからずいると聞く。

いつも言うことだが、言葉の意味はア・プリオリには決まらない。その言葉には、その言葉が表す意味がある。その意味とは、その言葉が使われる状況によって決まる。だから、上記の言葉も、その意味など誰からも教えられたことはないが、生きているうちに会得している。だから、これらの言葉が通じないということは、これらの言葉が使われる状況に置かれたことがないことになる。だから、これらの言葉が表面的に表す意味のみで理解が止まる。もっと言えば、もはや謙譲の美徳すらも通じない世界になってきているとも感じる。言葉と、それが指し示す状況との乖離とでも言うのか、こういう状況になってくると、言葉の問題にとどまらず日本人の美徳の根本が失われてくる危険すら憂慮される。人との直接的なつながりが希薄になったせいなのか理由はわからない。

我々の論理の根本は言語に依存する。正しく言語化できないとき感情は不安定になる。アンガーコントロールなんて最近耳にするのだが、カッとしている時には、その状況が言語化(論理化)できていないのだと思う。だから、「なんかムシャクシャする」ってのは、言語化(論理化)を諦めた結果だろうと思っている。

高校理科教育に対して「主体的に考える」が求められている。でも、私に言わせれば、高校生にいきなり「考えろ」と言っても無理だ。それまで「論理的思考」の訓練がなされていない子どもに、いきなり「考えろ!」はない。個人的には、いつも言うことだが、小学生から作文教育をすべきだ。感情を正しく表現する技術なくして論理など構築できるはずはない。

言葉は生き物である。生き物としての言葉の絶滅に向かっているのだろうか?かなり危ない状況が始まっているのかもしれない。