ミステリ小説とミステリ映画

ミステリ小説が好きである。ただ、「ミステリ」とひとことで言っても人によってその捉え方はものすごく違うと感じる。また、同じように感じる人であっても、その好みは極端に異なる。

私は、糸や針を使って密室を作ったり、それまで何かをひた隠しにしていきなりそれを見せて驚かせるようなミステリではなく、論理の積み重ねで物語が進むのを好む。犯人当てであってもどんでん返しであっても構わない。どちらにしても、すべてのデータは明示されているのだが、その全体像は闇のまま、あるいはまったく本質とは異なる形に見えるようにミスリードされていて、最後に論理的に並べ替えることで深い霧が晴れたように真の形が目の前に現れるものが好きだ。まあ、これらはすでに何度も書いているので「ミステリ」のキーワードで検索していただければ橋本の好みはご理解いただけると思う(例えばこれ)。今日書きたいことは映像化したミステリの話だ。

まず最初に書きたいのは、これまでに映像化されたミステリで「よかった〜」と思えたものがすごく少ないことだ。好みに合わない原作を映像化されても面白く感じないのはわかる。しかし、好きな原作の映像化でも「??」というものが多い。その理由はいろいろとあろうが、一つ考えられるのは伏線の貼り方だと思う。伏線は、その時に気づかれたら伏線にならないから、基本的には隠されるべきものである。しかし、まったく隠されてしまっても伏線として機能しないから、気づかれないように並べられつつも後で「ハッ」としてもらえるような絶妙に見せ方が必要だし、それができている小説が素晴らしいミステリだと思う。しかし、映像ではそうはいかない。まず、映像では前に戻ることができないから、あまりにさりげなく伏線が貼られていたら気づかずに過ぎてしまう。文章は必ずその表現を読むのだが、映像だとその部分を見過ごす(違うところを見る)ことが普通に起こりうる。短い時間の中で広いスクリーンの全体をつぶさに検討することは現実問題として不可能だからである。かと言って、伏線をわかりやすく貼ったらミステリにはなりえない。だから、ミステリとして本質的に成立させることは原理的にはかなり無理があるように感じられるのだ。

だから、小説として面白いミステリと、映像化して面白いミステリとは質的に異なると思っている。こういう話になると、ミステリってそもそも何?ってことになってしまうのだが、私が好むミステリはなかなか映像化しにくいのではないかってことである。逆に、映像で見て面白いミステリを小説で読んだら大して面白くなかったという経験もある。難しいですね。