言語と思考4/4
同じような議論が続くが、もう少しお付き合い願いたい。
我々の思考には我々の宗教観や倫理観が当然の如く入り込むと言われる。養老孟司などは「日本人が日本語で考える以上は、好むと好まざるとに関わらず必ず仏教の考え方が思考には入り込んでいる」という。思考すなわち論理の中に宗教感や倫理観が入り込むとしたら、それは言語からに他ならないだろう。言語とは社会の成り立ちの中から生まれ育まれ洗練されてきたものであり、宗教観や倫理観が言語の中に当然の如く入り込むことは自明の理であろう。その宗教的・倫理的「正義」を物差し(行動規範)と置いて言葉や行動から日常の礼儀作法に至るまでを子供に教え込むのだが、そこに介在する最も大きな道具は言語であることは間違いない。というか、言語を介さずに論理的なやり取りができるとは思えないのだ。
では、成長の過程で習得した言語がどのように思考や論理に影響を与えるのだろうか?振る舞いや道徳として言葉で躾けることはできる。しかし、それはすでに言葉を理解する年齢になって以降のことである。「人は言語によって思考するのだから、言語が根本的な論理体系に影響を及ぼすことは自明のことである」とはできない。なぜなら言語を介さない思考も存在するからである。黙考する時に人は多くの場合には言語を介していない。むしろ言語を介して黙考する時には本質的な思索には入れていないと感じる。黙考によって一つの結論が得られた場合に、それを言語に「翻訳」して他人に伝えなければならない。その時が唯一の「黙考している時に言語が必要とされる」場面だろう。なので、もし思考や論理に宗教が影響するとしたら、それは逐次的・直接的に言語が論理に対して影響を与えるのではなく、論理体系が言語に影響されて形作られ、構築された論理体系が言語とは独立に機能して思考の根幹となっているという今までとは逆の考え方をしなければならない。
生まれたばかりの赤ちゃんの脳には論理体系は構築されていないだろう。では、新しい論理を言語習得の過程で獲得するのかといえば、今まではそう考えられていたが多分そうではない。現象的に見れば、言葉を話すことができない赤ちゃんが徐々に言葉を話せるようになる。言葉だけではない。徐々にハイハイをし、立てるようになり、歩き始め走ったりできる。あらゆる運動ができるように脳の神経ネットワークが整備されてくる。これらを表面的にみたら「能力の習得に他ならない」と見える。しかし、その考え方だと論理矛盾が生じる。能力の獲得とは、その能力を成立させるための神経ネットワークの構築と言い換えられる。とすれば、新しい能力の獲得とともに神経ネットワークの数は増えなければ論理的におかしい。しかし生まれたばかりの赤ちゃんの脳には成人の一億倍以上の神経ネットワークが存在し成長に伴って神経ネットワークが事実として減っている。ここで発想を変えて、先に使う可能性のあるすべての神経ネットワークは誕生の時点ですでに用意されていて、それらが「要・不要」の観点から選別されていくと考えるのだ。すでに議論をした「成長の過程で使われない能力に必要な神経ネットワークは徐々に消失する」という考え方である。例えば、生まれたての赤ちゃんの脳にはすべての言語を話す能力が存在する。そして、日本語を話す環境に置かれた時に、日本語に必要のない神経の連結は消失していき、結果として日本語に特化した脳(神経ネットワーク)が完成する。この時に残った神経ネットワークが論理の本質として脳に「構造的に」維持されると考えれば、その言語で育てられる過程で、宗教的な教育や倫理的な躾が行われているのだから、無意識下での思考が宗教観に依存するとしても不思議ではない。もっと言えば、この時に、西洋の言語であれば「要素還元論的思考」が潜在するだろうし、日本語だったら「構造論的思考」の基本論理が成立すると考えていいように感じる。すなわち、言語が思考に影響するというのは、脳内に論理体制を構築する段階での時であって、この段階ではまだ明瞭な言語を発することはできないので、言語そのものが思考に影響しているのではないとする考え方になる。そして、大人になって言葉を話す際にの「言語」とは論理を発出する技術であって、もはや論理を構築する道具ではないと考えても構わないだろう。