言語と思考 3/4
前回は、チョムスキーのいう人間特有の普遍文法が、実は生まれたばかりの赤ちゃんの脳に構成されている神経ネットワーク全体を指すのではないかということを書いた。ただ、言語ということに焦点を当てて考えるともう少し違った考え方も成り立つように思う。
ネットワークだから、単純に目の細かい網目のようなものをイメージしていただきたい。言語を習得する過程で、しばしば用いられる神経の連結は維持されるが、まったく用いられない神経の結合は淘汰されると考えた。この淘汰も、積極的に淘汰されるのかそれとも使われないものが徐々になくなっていくのかはわからないのだが、なんにしても使われるもの=必要なものは淘汰されては困るだろうから、それ以外の神経連結がなくなっていくということになる。
英語を習得する時に必要な神経ネットワークと、日本語の習得に必須の神経ネットワークは間違いなく異なるはずだ。だからこそ論理に言語の影響が生じる。ただ、すべてがまったく異なるのかと言われれば、「言語」という論理体系に共通して用いられる神経ネットワークがあっても不思議ではないし、おそらくあるのだろう思ってしまう。細かい網目が成長とともに少しずつ破れていく。蜜のまま残る部分もあるだろうけど、互いのつながりがなくなってボロボロになった部分もあるだろう。成人になるまでに1億分の1までネットワークを消失させるのだから、全体としてみたらまあスカスカになると考えて不思議ではない。もちろん減っていくのは言語に関わる部分だけではない。あらゆる所作に関わる部分でも不要なネットワークは消失していっているだろうし、これがどれだけ残っているのかが運動や学習の能力の違いに関係しているとしてもまったく不思議ではない。
で、言語である。上にも書いたように、もしすべての言語に必要な神経回路があるとしたら、淘汰されずに残った神経ネットワークを比較してすべての言語に残っている部分の存在を確認したら分かるのではないだろうか。そして、それこそがチョムスキーのいう「普遍文法」の実態だと考えてみるのも面白い。
(続きます)