言語と思考 2/4
さて、ここで考えるのは、言語の論理体系と言語そのものの関係だ。これまで、この両者は等しいと考えていたのだが、論理体系とそれを表出するある種の「技術」としての言語は別次元のものであると考えたらどうだろう。そうすれば、日本語の論理体系を構築するために日本語による淘汰圧をかけることで日本語に特有のネットワークだけを残すとする。しかし、これはあくまでも論理体系であって日本語ではない。日本語という言語を用いるための基本論理だが「言語」とは一線を画する。こう考えたら、英語を母国語とする人と日本語を母国語とする人が脳の中に構築した論理体系は自ずから異なると考えて構わない。これを「思考は言語に依存する」としたのではなかろうか。
ちょっと横にそれるのだが、チョムスキーの考える普遍文法は赤ちゃんが有する神経ネットワークを指すと考えてもいいのかもしれない。すべての言語を習得する人間だけが持つ能力をこう考えてもあながち間違っているとも思えないのだが。また、この文章の中で「習得」「獲得」といった言葉を使っているのだが、実際には真逆のことが起こっている。新しい機能を獲得したのではなく、それ以外の機能(潜在的な能力)を排除することによって結果として一つの能力に特化できたと考える方が論理的かもしれない。言語を習得できる期間というのがあるらしいが、その期間に他言語の論理に対応するネットワークの排除が行われているとしたら、その期間を過ぎて他言語を習得しようとすることの困難さが理解できる。また、画一的に神経ネットワークを減少させるのではなく、その子の生育環境によって減少させるネットワークの数や質は異なると考えて間違いない。パズルが好きな子供は、パズルに特化した神経回路は残されるだろうし、それが他言語の論理に関係する可能性も十分にある。世に「語学の天才」がいるのだが、もしかしたら成長過程で多くの言語の論理体系に関係する神経ネットワークを維持し続けた結果として大人になっても多くの言語の習得が可能となってと考えても面白い。
違う視点から見ると、赤ちゃんはとにかく柔らかい。関節も「どこまで動くの?」と思えるくらいに可動域が大きい。しかし、これが成長とともに固くなる。可動域も極端に狭くなってくる。しかし、小さい頃から関節を柔らかく保つための運動(ストレッチ)を欠かさずにやってきたら、おそらく大人になっても関節はかなり大きく動くはずである。大谷翔平さんは小さい頃から肩の可動域を広げる運動をしてきたと何かで見た記憶があるのだが、本来持っていた機能であるにもかかわらず普通の人が成長過程で失ったものは多い。それが才能であり可能性に直結すると考えたら違った見方ができそうな気もする。
(続きます)