将棋と囲碁

以前に

 

『ところで以前のコラムで「ゲノムをより直接的に扱うなら個体発生より系統発生を考慮しなければならないかもしれない」、「歴史的に見て発生とゲノムとの関係を言い始めたのはせいぜいこの20年ぐらいのこと」と書かれておられましたが、この内容をもう少し詳しく教えて頂けないでしょうか?』

 

とご質問を頂きました。

 

ここで思考が堂々巡りして止まっていたのですが、

このまま放っておくのも気持ちが悪いので少し書いてみましょう。

 

まず、後者の「発生とゲノム」の話はあくまでも私の主観です。

ただ、発生学の歴史から見ると、

あくまでも生き物の形づくりが機械論的にどのように説明されるのかに

個体発生の研究は集中して研究されていたと感じます。

もちろんこれは広い意味での機械論で、

構造主義生物学的な今よりも自由な発想は育まれていましたが

でも、結局はその機構に関与する「物質」を見つけたいというのが

その根本にあった訳です。

だから、現在でも古い発生学から来た研究者は

発生現象に「モノ」を見いだそうとする傾向があると感じます。

それに対してゲノムの概念は基本的には遺伝学から来ています。

そのゲノムの概念が進化に入ってきたのはおそらく木村資生からでしょう。

その時点で、発生学者がゲノムの概念を意識していたかと言えば

私にはそうは思えないのです。

ただし、これには反論もたくさんあるでしょうから

持論を主張するつもりなど全くありません。

 

次に、ゲノムをかたちとして考えることを私はしています。

そこで、発生学を考えるとすぐに行きどまるのが細胞の分化と移動です。

細胞の分化は、それまでの構成要素の性格が一瞬に変わることですから

分化した瞬間にそれまでのかたちそのものを再度考慮し直さなければならない。

だから「かたちの変化」のかたちを考えなければならないことになるのです。

しかし、進化(系統発生)を考える場合には

そこに流れる時間が長過ぎるので結果的には発生学のレベルの

小さな要素の変化(にかかる時間)を完全に無視できます。

要は、ある形態を獲得できたか否かだけを見れば良い訳で、

その際には、その形態を作り上げる個別の過程に考慮する必要は無い。

その過程を作り上げることのできるゲノムを獲得したとしてよいように思います。

 

これらを極論を承知で言い表せば、

個体発生を考える時には将棋、

系統発生を考える場合には囲碁

のような思考をしなければならないと感じるのです。

囲碁は、それまで築き上げたかたちを基本的に変化させることは無い。

ひとつひとつ要素を足してかたちを作り上げて行けば良い。

もし囲碁で、いきなり黒石が白石に変わったり、

今まであった場所から石が移動したりすれば

囲碁という「かたち」そのものが成立し得ない。

しかし、ご承知のように将棋では駒が動き回りますしある条件でいきなり駒が成ります。

また、コマがいきなり消えてしまったり、前触れも無く突然駒が現れたりします。

駒が成った瞬間に、今までの駒の性質は一気に変わりますよね。

駒が消えたり現れたりすれば、いままでの方法論ではかたちを考えることなどできそうにありません。

で、個体発生ではこの将棋のような思考をゲノムに対してするべきなのだろうと思ってしまうのです。

ただし、ゲノムは囲碁と将棋の両側面を持っているにもかかわらず

ゲノムという概念としては同一のものですよね。

この同一性がどこにあるのか?

これを考えて、堂々巡りしている訳です。

 

全く説明になっていませんが、現時点ではこの辺りでお許しを。

もう少し考えてみます。

ただ、この手の議論は少人数で「カレンダー裏ディスカッション」を

時間をかけてすることが一番近道だろうと思います。

また機会があればどなたかお付き合いください。