ゲシュタルトと時間?
先週水曜日の業績報告会の前は何かバタバタと忙しく
終わったら気が抜けてしまいぼーっとしていました。
さて、昨日の夜、入浴中に何となく考えていたことです。
読書のとき普段は何も考えずに(意識せずに)文章を追っています。
でも、何かの瞬間に「文章を読んでいる」そのことを意識します。
すると、いままでは完全に無意識に行なわれていた
「自分が文章を読んでいるという行為」が意識されて
文章の意味を取れなくなってしまいます。
同じように、呼吸なんて誰も意識していませんが
息を吸ってはく行為そのものを意識し始めると
呼吸そのものがとても大変な行為になります。
この感覚が「ゲシュタルト崩壊」の感覚に似ていると私は感じます。
かたちの議論をする時に時間の議論と共存させられません。
時間とかたちは私にとっての大きな壁のようなものです。
だからゲノムを考える時に個体発生の立場で議論すると
ある瞬間に立ち止まって動けなくなるのです。
この、動作の中に見えるゲシュタルト崩壊に似た感覚って
時間とかたちをつなぐ何かになるのでしょうか???
たぶん何の意味も無いことなのでしょうが
ふと頭をよぎったもので久しぶりにかいてみました。
『ど忘れ』も不思議ですね。
文字を書いている途中、いつもなら書ける漢字が頭の中ではわかってるのに、書けない!言いたい事が喉まで出かかっているのに言えない!俳優さんなど、本当は名前は分かるのに、その人の出演してるコマーシャルやドラマの役は言えるのに名前が出て来ない!!…老化現象と言えばそれまでですけど、なんかその間は気持ち悪いですよね。。。
私の場合、ど忘れというレベルを最近は超えつつありますが、そう感じますね。「てにおは」なども一気に言ってしまえば問題なく出てくるのに、ちょっと考えながら話すとどの助詞を使えばいいのか分からなくなっている。これは敬語が使えない話と同じような感じかも知れません。時間を含む何かがゲシュタルト崩壊しているのでしょうか?
私のど忘れはおそらく老化現象かボケが入っているのは間違いないようですが・・・。
ゲシュタルトがよくわかっていないのでおそらく的外れな感想だと思いますが、このコラムを読んでゲシュタルト崩壊には二種類あるような気がしました。
一つは例えば食事中に呼吸を意識するなど(食事は食べることが目的なので「食べる」行為が上位の階層で「呼吸する」行為は下位の階層と考えました)、意味が閉じた下位要素を意識して分解してしまうことで生じる「崩壊」。もう一つは「かたちと時間」、「視覚と聴覚」、「光と闇」など、一方が他方を打ち消すことで成立する関係性を同時に捉えようとすることで生じる「崩壊」。
それで「個体発生」という観点からだと対立してしまう「かたちと時間」の関係性も、「系統発生」という観点からだと「時間」を「かたち」の下位要素として取り込めるような印象を持ってしまいました。
生命誌研究館の桜は初めてです。今から楽しみです!!