応答能
応答能って言葉は私の仕事の分野でよく出てきます。
簡単に言いますと、神経を作る時期に「神経になれ!」と信号が来るのですが
その信号を受けられる細胞と受けられない細胞がある。
まあこれは、神経と関係のない場所の細胞が神経になってしまったら問題なので
その危険を回避しているということなのでしょう。
で、神経になれる細胞のことを「応答能がある」と考えます。
もちろんこれは神経に限ったことではなく、
特定の信号に反応できる能力一般をさすと考えても大きく間違っているわけではありません。
さて、例示した話は発生学(受精卵がかたちを作っていく過程を調べる学問)のことですが、
この応答能ってのは人間にもあるように思います。
これはあらためてここで書くこともなく、数年前の大ベストセラーで養老孟司も書いていました。
山田風太郎を読んだ時になんだかすごく納得してしまいます。
この思想信条こそが私たちに必要なのだと真面目に思います。
もし興味のある方は、
たとえば「明治断頭台」を、例えば「夜よりほかに聴くものもなし」を、
あるいは「人間臨終図巻」をご一読ください。
ここでは、別に何でも構わないのですが、
最近みかけた彼の文章をひとつご紹介しておきます。
「日本人は人の罪を責める心が弱いようだ。
むろん、自分自身に対してはさらに甘い。
いくさに負けたからといって、ムッソリーニとその妾を裸にして広場で逆吊りにし、
死屍に鞭打つなどというまねは、たとえ東条大将が生きていても日本人にはやれそうもない。
この弱さがある限り、外国人との競争には永遠に勝てないだろうが、
しかし、日本人のこの弱さは、俺は永遠に捨てたくない。」
このコラムの書き出しと、この引用文の何が関係あるのか?と疑問に思われるでしょう。
私はふと風太郎の文章を考えた時に、
この文章に共感できるのはいまだからではないかと思ったのです。
おそらく若い頃には彼の思想信条に共感できなかったのではなかろうか?とも。
先にあげた細胞の応答能の獲得にも、
卵が分裂をしてたくさんの細胞ができ上がる過程で、
どういう経路をたどり、どういう信号を受けて育ってきたかによって
その細胞の個性が決まり応答能も決まります。
これを発生学の言葉で「コンテキスト(文脈)」を呼びますが、
まさに、その細胞の歴史が応答能の有無にかかわるわけです。
あるいは、どの信号に応答するのかに関係するのです。
人間も、当初は身近な親族の影響を受け、
学校の先生や幼なじみの影響を受け、
見聞きするもの、読んだ本の内容などによって影響を受けながら、
己の哲学を築き上げていきます。
そして、その哲学も年齢を重ねるにつれ、
色々な経験をもつにつれてとうぜん変化していきます。
だから、風太郎の思想に共感できるのも、
くねくねと曲がりながら、いろいろなものにぶつかりながら歩いてきた
私の「文脈」によって培われた応答能によるものだろうと思います。
まあ、だからこそなのですが、人それぞれの価値観にも理解を示さなければならないと思います。
互いに異なるのは当たり前だということでしょう。
最後に、風太郎の言葉を引用しておきます。
「犬を愛する人にとっては、いかに犬が愛すべき動物であるかということについて百千の理屈が成り立つ。
犬の嫌いな人間にとっては、いかに犬がうるさい動物であるかということについて百千の理屈が成り立つ。
このあいだの断層は、永遠に埋められやしない。」