言葉とゲノムの質的に似ている(と思う)ところ

意味は文章に生まれる。

だから文章(意味)を作るという錯覚に陥るのだが、

たぶん言葉(単語)の並びの組み合わせによって意味が生じるのであって、

意味を生む為に言葉を紡ぐのではないのだろうと最近は感じている。

もちろん、「いいたいこと」を「作文する」ということはあり得るのだが、

それは因果が逆なんだろうと今は思っている。

ただ、自分が言葉を操っている感覚があるので

自分が意味を創作しているというように感じるだけなんだろうと思う。

言葉による表現者が「新しい意味」を産み出すときにすることは、

新しい意味の創成ではなく新しい組み合わせの創成なのだろうと思う。

新しい組み合わせが新しい意味となるというだけの話なのだろうし、

その新しい組み合わせを創成することに

おそらく心理的にもそうだろうし、

教育的にも社会的にも学問的にも歴史的にも強い淘汰圧を受けるのだろう。

そこに新しい表現を作り、新しい意味を作ることの大元は、

たんに言葉の組み合わせに端を発するのだろう。

 

ゲノムは4文字で書かれているし英語などは26文字で書かれている、

そういう表面的な相似性で質的な相同性を論じるのは全く意味がない。

組み合わせの妙で数限りない意味を創成するという構造こそが

言葉とゲノムの質的な相同性なんだろうと思う。

だから、その組み合わせを作る方法論、

それはたとえば分子機構論だったりするのだが、

それはあくまでも後付けの話であって、

それが原動力だと考えるのは論理的におかしいと思うのだ。

何か新しい機構が変異によってたまたま生まれることはある。

ただ、それが意味を持つかどうかは淘汰によってのみ決まる。

淘汰に打ち勝つ為に新しい方法論を獲得すると言う議論は

論理的にはなはだおかしいと感じるのだが、

進化の話をする方の多くがそのような論理展開をするように思う。

この辺りの違いが発生拘束を受け入れるか拒否するかの違いに行きつくのだろう

https://hashimochi.com/archives/6852