理解とは・説明とは

昨日のいまいさんのコメントに関して思った事を書きます。

きわめて個人的な偏見がてんこもりの「私見」です。

 

言葉に頼り過ぎるあまり、

あるいは論理的に説明しなければという使命感なのか、

大人が頑張って理屈を話せば話すほど

小中学生が理科に対して魅力を感じなくなっているような気がしています。

理屈が偉く優れていて感覚的なものが劣っているみたいな

似非科学論理至上主義のような感覚が一般に蔓延して、

本当に面白いところを面白いと感じさせてもらえないから、

「それよりはゲームしている方が楽しいよな」ってなるんじゃないのかな?と

何の根拠もありませんが感じているのです。

 

特に子供のうちは直感的な魅力に動かされるのが本当なのではないか、

大人が馬鹿にして見向きもしなかったゲルニカを見て

子供たちが恐怖のあまりに泣き出したという、

野性的な感受性に訴えかけても良いのではないかと感じています。

だから、言葉を離れて語りかける何かがあっても良いのかも?などと。

デイヴィッド=バーンではありませんがStop making sense!!ってことですね。

 

もちろんこれらは是非を問うものではなく、

どの方法論にも一長一短あるのではないかと思っています。

その中でいまは理屈が氾濫していると感じるので

もっと感覚的な「説明」に挑戦するのも良いかと思ったゆえの文章でした。

同様の感覚で物理や数学的なアプローチはありだし、

それは生物研究の世界で近年は積極的に受け入れられていますよね。

 

ただ、言葉で表現する努力は怠ってはならないと感じます。

小説を読んで、心の機微を見事な言葉で表現されていると感動し、

その言葉を操る巧みさに感銘を受ける事があります。

感情なんて最も言葉に表しづらいものだろうと思うのにすごいな、と。

 

私は言語体系とその他の思想哲学の大系は別個のものであり、

別個のものをいったん言語に翻訳して説明しようとするから

理解しづらい「難しい」ものとなると考えています。

だから頭の中にある「かたち」の言語による説明は

本質的には絶対にできないのだろうと思うのですが、

でも、思考活動に言語は不可欠であろうというのも事実だろうと感じます。

まあこの辺りを考えるとチョムスキーに至るのでしょうが、

そこまで行かなくとも、本質に迫るためのきっかけというか動機付けのようなものは、

分かりやすくて優しい言葉から始まるというのも事実でしょう。

 

ネタを明かす事になりますが、私が講義やレクチャーなどで気をつけている事は、

正確さを追い求めるあまりわかりにくくならないこと、

あるいは全体のかたちをゆがめないようにする事です。

だから、不正確であろうと、あるいは多少の嘘を交えようとも、

お伝えしたいかたちの全体像を見せるための努力をしたいと考えています。

 

何となくですが、小中学生に対して言葉による説明をする事というのは、

本質の説明ではなく動機付けという目的だけのために、

ただ面白いという感情を引き出すだけのために、

わかりやすい言葉は必要だろうと感じますが、

それは直感に訴えかける言葉でなければならないと感じるのです。

では、何を訴えかけるのか?

それは「面白いでしょ?」って感情しか無いと思っています。

 

まずは感覚的に「面白い」「不思議だ」から始まり、

そこにあとから「説明」がなされる事で科学的思考方法を知る。

この説明が問題で、悪い意味での理屈っぽくなるとダメなように感じます。

悪い意味での理屈とは、個人的にはそれは分析的な論理であり、

それが科学を面白くないと感じさせるのではないかと思うのです。

もちろん個人の感受性はさまざまでしょうから、

分析的思考を「面白い」と感じる子供もいるでしょうが、

子供うちだからこそ、かたちの全体像に想いをはせるような感覚を身につけてほしいし、

大人として、科学者の端くれとして、そういう「教育」をしてあげたいと感じます。

ただ、特に生物学の最近の先端研究はそうではないという事実がありますから、

あえて子供のうちは言葉で説明できない何かに興味を持ってほしいなと思うし、

実はそれこそが思想・哲学の根本原理ではないかと思うのです。

思想の無い科学なんてつまらない、個人的な趣味嗜好ですが、そう思います。

 

コメントへのお答えにはなりませんでした。

日本語の作文能力を身に付けなければ・・・・・・・。