ゲノムを理解する事とは

ゲノムを理解する事とはどういう事なのだろう?

あるいは、どのなったらゲノムを理解したとする事ができるのだろう?

ゲノムをゲノムたるものとする本質はゲノムに潜在する「かたち」であろう。

そのかたちをどのように理解するのかという問いかけがこの答えになる。

 

ここで、理解するという事について「理解」しなければならない。

異なる「かたち」あるいは体系を理解するためには

その体系を「分析」する事が必要なのだろうか?

体系の理解を体系の分解に求めるとするならば、

それはゲシュタルト崩壊という結論に至るしか無いといえる。

体系は、その体系が意味する全体を己の心に取り込んで

そのまま理解するしかないのではないかと思わざるを得ないのだ。

 

空海が曼荼羅をあらわした目的は、

おそらく密教の教えという「かたち」を言葉という「かたち」に翻訳できず

曼荼羅という表現にするしか方法が無かったのではないかと思うのだ。

言わば曼荼羅とは空海の悲鳴のようなもの、

あるいは空海のある種の絶望感を示しているものなのかもしれないとすら思う。

ある考えを他者に理解させる方法論として言語を介するのが普通に考えて一般的な事だろう。

しかし、言語という別体系に翻訳すればかならず元の体系とは異なるものとなる。

本質的にまったく異なるものとなるとしてもあながち言い過ぎではないと思う。

それでは意味はないと空海は考えたのではないのか?

密教の本質を伝えるためには、密教のかたちをその人のこころに作る事に他ならない。

空海が理解していても、それをそのまま他者に伝える事ができない。

こころに映るかたちを、そのまま移植する方法が無い以上は、

すべては意味をなさない。

 

話はいきなり卑近なものとなる。

橋本がかたちの話をする。

かたちの話は橋本のこころの中には確かに存在する。

しかしそれを伝える事ができない。

だから、周辺をぐるぐる回る事となる。

ありとあらゆる例え話をする。

普通に聞くと何を言っているのかわからないだろうと思うが、

このさまざまな例え話から聴いている人のこころに「かたち」ができてくれないかと

無駄だと思える試みを繰り返している。

理解とは言わばこちら側の問題ではなくそちら側の問題なのだ。

教え方・伝え方の問題ではなく教えられる方・伝えられる方、

理解したいと望む側の問題なのだろうと思うのだ。

かたちの話をもう何十年も考え続けてきた。

どんな書籍を読んでもどんな人と話しをしても

こころの中のかたちはできては崩れるを繰り返す。

でも、ある瞬間にすっとすべてがおさまるところに落ち着いた。

こころの中にかたちができた瞬間なのだろうと思う。

問題はこのかたちを他の人に理解してもらう術を持っていないのだ。

 

この一連の話は、たとえば仏教の修行が近いかもしれない。

修行とは悟りを拓くために行なう事であろう。

悟りとは、すべてを明らかにする根本思想を獲得する事だろうと思う。

これはおそらくありとあらゆる体系の中心的なかたちに相違ないと思うし、

それこそが生命の本質であるゲノムのかたちに相違ないと感じるのだ。

人は満ち足りているときに悩む事をしないだろう。

心が身体が苦しいときに人生について考えるだろう。

それを克服する事で何かを体得できると感じてしまうように思える。

だから苦行をするではないだろうかとすら思うのだ。

だが、これは悟りの本質ではなく悟るための勝手な方法論でしかない。

ただ、苦しい時はその時のこころのかたちが安定していないのは確かだろう。

だから、悩むという行為でそのかたちの不安定さを解消する努力をしているのだろうし、

悟るとは、かたちの究極の安定を求める行為、

あるいは、どのような変化に対しても落ち着いて受け入れられるゆとりを

こころの中で獲得する事なのではないかと感じるのだ。

 

さて、ゲノムを理解するとは仏教の行のような行為と例えて構わないと思う。

だから、言語で説明できる事を目指してはゲノムのかたちが崩壊するだろう。

分析という行為もゲノムの本質を見失わせると思う。

空海の苦肉の策、曼荼羅による表現のような事、

あるいは苦行によって己が理解するしかその本質にはたどり着けないのだろう。

こう言ってしまえば科学的方法論は無力となる。

だから、哲学的方法論、あるいは思考することが重要なのではないだろうか。

ゲノムをどう考えるのか、それは塩基配列の理解ではないと思う。

生命とは何か?それはゲノムの本質であろうし、

系統進化からの視点はゲノムの比較解析を可能にするとは思う。

ただ、それは塩基配列の比較ではないのではないか。

 

理解する事と説明できる事は質的にまったく異なる。

しかし人は理解するために説明しようとする。

言ってしまえばこれが科学の本質だろうから

科学と言う方法論を用いる限りこの辺りが限界なのかもしれないが、

まったく異なる視点から見つめてみる努力はすべきではないだろうか?

 

生命誌研究館ではゲノムを曼荼羅で表現する試みを行なっている。

奇を衒った目新しい見せ方をするだけならこの行為に意味はないのだが、

ゲノムの概念、言語に翻訳したら消失するかたち、を

なんとか伝えるために曼荼羅という表現に挑戦する事は重要だと感じる。