かたちの会、終わりました。
参加者の皆様、昨日はお疲れさまでした。
レクチャー形式をとらない初めての試みでどうなることか不安だったのですが
まあ、なんとなく無難に時間がすぎましたね。
また、なんとなく次への課題も見えてきたようにも感じるし
結果としてよかったと思っています。
また、やり方を固定する必要はないと考えていますので
たとえばそのときの話題提供者がやり方を考えてくれたらいいかなとも思います。
個人的に考えることは、
私が話をするとその辺りが結論になってしまわないかな?と思い
どうしても発言をためらってしまうのです。
まあ、そう言いながらも沈黙が怖いので話しはしましたが
私がどの程度発言をするのがいいのか悪いのかいまだにわかっていません。
やはり何かちゃんとした教科書みたいなものを叩き台にした方がいいのかな?
などとも思ったりもしています。
たとえば、完全に思想や論理の問題なら全員で徹底的に考えれば済むのですが
知識やデータが無くてはどうしようもない場合には
道を知らない人が集団で迷子になっている状態であり
どっち行っていいのか分からない人たちが議論を繰り返すという
ある意味では愚かな行動になりがちな気もするからです。
ただし、逆に知らないながらもいろいろと可能性を議論して
そこから生じてきたいくつかの問題点を
次回までに誰かが調べてくるというのも建設的かもしれません。
とにかく、試行錯誤ですがいろいろと意見を出し合って意味のある集まりにしたいです。
今回の話で生じた個人的な問題点は個体発生と系統発生におけるゲノムの役割です。
遺伝子や分子、あるいは細胞などは個体発生の過程では頻繁に意味を変えます。
しかし、系統発生では遺伝子や分子が意味を変えるととらえては考えない。
系統的に分類される新しい形質を作り上げるには
それを作る発生過程が必要であるのは自明のことながら
その「重要な過程」を系統発生ではいまのところ議論のしようがない。
だから、「相同な遺伝子」の存在を系統的に議論するのだけれど
そこに立ちはだかるのが「前適応」の問題です。
さて、次回の話題は何になるのだろう・・・金山さん?
昨日初めて「かたちの会」に参加させて頂き「進化」のお話をお伺いしたのですが、「進化」について用語はもちろん基本的なことが全くわかっていないことに気づきました。そこでちょっとご質問なのですが、
①進化を考える際、「種レベルの進化」、「形質レベルの進化」、「遺伝子レベルの進化」と分けて考えることは可能ですか?
②①が可能な場合、各レベルの進化を議論する際のポイントは何ですか?
③「進化」という観点から「種・形質・遺伝子」の関係性を考える際、ポイントは何ですか?
どなたかご教示下さいましたら幸いです。
昨日はありがとうございました。
みなさんのお話を聞いていて、
「あ、その話どこかで聴いた気がする」と思うことがあっても、
うる覚えだったり説明できるほど理解できていなかったりで、
なかなか言葉にできませんでした。聞く専門ですみませんでした。
かなやまさんの「植物は交雑が簡単で、ゲノムをやりとりすることで新しい能力を獲得できた。では動物は?」という話に興味をもちました。
「同一遺伝子による表現型の多様性」と「多様な遺伝子による同一の表現型」があることを
どう説明するかを考えるのも面白そうです。
(専門的な知識がないから、聞く専門になりそうですが)
個人的に面白かったのは、ちらりと話題になったIgEのことです。
少し前にアレルギーについての番組を見たのですが、
哺乳類にはウロコや硬い皮膚がないために外敵からの攻撃を受けやすかったけれど、
IgEによる新しい免疫システムが獲得したことで、
外敵から身を守れるようになったと知りました。
その免疫システムが完成したのは2億年前らしいのですが、
現在の清潔な社会では、乳幼児期に細菌成分である「エンドトキシン」に
触れることが少なくなったため、免疫システムが成熟できずに、
花粉やほこりを外敵と認識してしまうアレルギー体質になると、
ヨーロッパでの研究によって分かったそうです。
2億年経って、IgEをつくらない(つくれない?)ヒトがいるってことは、
確実にヒトのゲノムは変化していて、以前橋本さんが書かれていた、
周囲の細菌や微生物などを排除した「異常な環境」に適応してきている気がしました。
あと、未分化な細胞が単独でいるときと集団でいるときとでは、
最終的に分化する細胞の運命が変わるというお話で、
これまたテレビで見たのですが、社会で起こる現象をシミュレーションする研究(http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20080527.html)と
細胞社会学がうまく歩み寄れば、近藤滋先生みたいに数式が見えたりしそうとか、
ぼんやり思いました。(既に検討済みっぽいですが)
何となく橋本がコメントする感じになっていますが、このゆぐちさんの質問には正確に答える自信がありませんので、どなたかお答え頂けたらありがたいです。
個人的な意見として橋本は、この「分けて考える」分け方があまり意味をなさないように思えるのです。では逆に質問ですが「遺伝子レベルの進化」って具体的に何を指すのでしょう?遺伝子など日々変異が導入されています。ヒトでも全く同じ個体はいませんよね。では、個体差を進化というのか?ってことです。それから「形質レベルの進化」って、何か特定の形質を獲得(喪失)したことを指すのですか?それなら、その形質を基準にして分類は可能ですが・・・、そこからどこにたどり着こうとしているのか見えないのです。変異の源がDNA配列の変化だとすれば、変化は連続的なものでしょう。しかし、それが形質として具現化する時にはどうしても連続した形質にはなりにくい。というか、おそらくは形質としてはそれぞれが不連続の独立した形質になるはずです。極端な表現をすればあるところまでの変化はこちらの形質で許容できるが、それを超えてしまったら隣の形質になってしまうという感じです。そして、その新しく生じた形質が新しい「種」として独立させる形質として十分であるかどうかの議論は、もしかしたら分類学者の問題かもしれない。
間違っているかもしれませんが橋本が感じているのは次の通りです。遺伝子(を含めたDNA配列)に変異が入ることは普通に起こりうることで、その変異がそれまでのゲノムの構成(そこまでで確立して来たかたち・関係性)に変化をもたらすとき、その変化が閉じることが出来たらとりあえずは生きものとして出現する。この過程が「内部淘汰」で、この「閉じられる」かどうかを試すのはまぎれもなく個体発生過程であるということです。次に、出現した新たな生きもの(ゲノム)が環境に耐えられるかが試されます。これが外部淘汰(自然淘汰)であるということ。種の定義が難しいので種の進化を考えるのは避けますが、これらふたつの淘汰圧に耐えて生じた新しい生きものが、外部形質としてそれまでの生きものと区別が可能なら新しい種(とは限りませんが)が生じるということでしょう。ただし、種というのは同じ種の物理的隔離によってもできるはずですねよ。要するに淘汰圧はそのゲノムが現在のままに維持される方向で働くはずですが、それを保障しているのは集団の中でのゲノムの混ざり合いである訳で、混ざり合い、子孫を残すことで淘汰に耐えられない(ゲノムをそのままのかたちで安定に維持できない)変異をなくしていくはずです。しかし、同じ種が物理的に隔離されたところに別の個体群を作って生活をはじめると、それぞれの集団ではゲノムを混ぜ合うことで種の維持をしますが、集団間でゲノムの混ざり合いは起こらないので、長い年月が流れるとそれぞれの個体群に独自の変異が固定される可能性が高い訳です。この過程で新たなゲノム構成が生じても不思議ではないけれど、種レベルの進化を考えるには生態学的考察が不可欠になって来ますし、この手のことを考慮に入れ始めると議論は収斂していかないと感じます。
次回は、このゆぐちさんのご質問を皆で議論し合ったらいろいろと整理できるかもしれませんね。
橋本さんにはいつも同じことを言って頂いているのに、「かたち論」を頭でぼんやりしか理解していないがゆえに、「遺伝子レベルの進化」、「形質レベルの進化」などとナンセンスな発想をしてしまうんでしょうね。
「DNA配列の変化は連続的であるが形質の具現化は不連続で独立的」、「変化が閉じられる否かを試すのが個体発生過程」、「ゲノムを混ぜ合うことで淘汰に耐えられない変異をなくしていく」…..。 橋本さんの言葉が私の中にしみ込み、少しずつ頭の配線が変わり、ある日突然臨界点に達して「かたち論」が体で理解できるようになる。そんな「新しい認識のかたち」が私の頭の中にできあがる日がいつか来ることを信じて…..。これからもご教示のほどよろしくお願いします。
ゆぐちさんのご質問に対する答えになるかどうかわかりませんが、ちょっと述べます。
形態形質の変化(進化とは言わず変化としておきます)は遺伝子の変化が先に起こっていないと起きないでしょう。その変化のレベルはカンブリア爆発のようなものから、近縁種間のようなものまでいろいろあると思います。動物ではカンブリア爆発よる形態の多様化のはるか前に遺伝子の多様化が起きていたことがわかっています。ゆぐちさんは参加されませんでしたが、前回宮田先生がお話しされたかもしれません。(何回か聞いているので、いつ聞いたのか忘れてしまいました。)ですから、「遺伝子レベルでの変化(多様化)」と「形態レベルでの変化(多様化)」という分け方はできると思います。変化はいろいろと起こると思いますが、変化のうち生き残ってきたものが進化ということだと思います。当たり前のことを言っているようで、すみません。もうしばらく考えます。
私が何かを言うと、それが絶対真理みたいな雰囲気になる危険性があって、たとえば私が「分からない」と言えば純粋に分からないだけだとしても言われた人から見れば否定されているように感じられてしまうみたいで、ここが怖い。私の表現の仕方が断定的なのか威圧的なのか(本人にはそのつもりは一切ないのですが・・・)、私が意見を言うことが結論みたいになってしまうことがあります。私は間違っているかもしれないし、正しいかもしれない。そこを突き詰めたいと思っている訳ですから、まあ皆さんは自由に議論をしてください。というか、このブログがそう言う場になればいいなあって思っています。
あすべさん、ご教示どうもありがとうございます。あすべさんのご意見ももっともらしく思われ、視点によって「分けて考える」lことが可能になったり、無意味になったりするのかな?と感じました。とにかく議論が少しずつ広がっていって楽しいです!