意味の階層性

最下層の要素は定義できませんよね。平仮名の「か」って、それだけでは意味付けのしようがないし、赤色って辞書にはなんて書かれているのだろう??でも、「からす」になったら意味が生じる。その意味は「からす」というかたちとそれが指し示すモノがあることから成立する訳で、「か」「ら」「す」をいくら調べてもカラスは出て来ない。これはこれで構わない。しかし「からす」が閉じて要素となった時には「か」の時とは違って意味を持ちます。

 

この辺りから頭の中が混乱して来ます。たとえば細胞にホルモンなどの分泌因子が作用したら特定の細胞へと分化したりしますが、そのような現象をどう考えたら良いのでしょうか?ホルモンは小さい分子ですから、細胞の大きさからすれば階層はいくつも違いそうですが、その分子が細胞全体の性格を変えてしまうとしたら細胞と同格で扱わなくてはならないようにも思えます。しかし、では細胞表面に存在するホルモン受容体を考慮に入れ、受容体から細胞の内部へ信号を届ける分子を考慮に入れるとどうなるでしょうか?このような分子機構を考えると、行き着く先は「その細胞がどのような分子機構で新たな性格を持つようになったのか」ってところで話は止まります。重要なのは、細胞の中の分子機構ではなく、ホルモンが作用して細胞に新たな性格が生じたという事実であり、その性格を持った細胞が次に周囲の細胞達とどのように関係性を持つのかということでしょう。これを調べるのにどのレベルまで分子の意味に注意を払わなければならないのか?

 

細胞は細胞内小器官から成立するし、その性格付けは細胞内で発現する転写因子やシグナル伝達因子などによって決まる訳で、そのような要素が集まって細胞というかたちとして閉じるのだけれど、問題は、そのかたちに成長因子が作用することで「かたち」そのものが変化する点です。だから、上位のかたちの中でそれまでと同じ要素としては細胞を扱えません。むしろ、全く新しい要素が加わったことになりますから、上位のかたちは自ずから変化せざるをえません。細胞というかたちを構成する要素に成長因子(あるいはそれによって誘導される新規遺伝子)が加わって新しいかたちを作ることになるという事実はかなり厄介です。「からす」みたいに下位の構造を扱う場合には要素の意味を考える必要がなく、かたちとして閉じた瞬間に意味を持つという説明でそれほど間違ってはいなかったのでしょうが、要素自体が下位の要素によって意味付けされてくると、その意味が途中で変化すると言う事態に遭遇する訳で、かたちと要素の関係が見えにくくなって来ます。階層性に関しても、クオーク→原子→分子→・・・ってところまでは明確に規定できるように感じるのだけれど。

 

こう考えてくると、「かたちの変化のかたち」を考える必要性が出てきます。これまでは(おそらく必然的に)時間軸を意識から外してかたちを考えていました。しかし、成長因子によるかたちの変化を考える場合、あるいはもっと一般的に発生過程で見られる分化を考える時、閉じていた要素のかたちが一旦解体し、そこに新たな要素が加わることで異なるかたちへと変貌を遂げて新しい要素となります。こうなると、「からす」を議論していたような単純なかたち論では手に負えなくなります。

 

もう一つの問題点は、このように発生過程のかたちを追いかけることとゲノムのかたちを考えることの関連性をどのように考察するのかということです。ゲノムはかたちとして扱って構わないと思います。しかし、ゲノムのかたちを夢想していると、具体的な現象を扱うことにはならないために、どうしても「からす」レベルのかたち論で集結してしまいます。ゲノムの情報は個体発生において具現化されます。個体発生過程を経ることで内部淘汰を受け、出来上がった生きものが外部淘汰を受けることでゲノムは洗練されます。ゲノム自体をかたちと考えれば時間軸を無視せざるをえませんが、個体発生過程を考慮すれば時間軸を無視できません。養老孟司はかたちを視覚情報と言い働きを聴覚情報と言って、本質的に同一のものを脳の都合によって考え分けているとしましたが、ゲノムと個体発生をつなげることは脳のジレンマなのかもしれません。

また、少し余談ですが、ゲノムをかたちとして考察した場合にその適応範囲を計りかねてしまう。キリンの首の問題などは「多形と自然淘汰」で徐々に変化したのではないと思いますが、トリのくちばしくらいなら多形と自然淘汰で全く構わないでしょう。この違いをどう区別することが出来るのか?ここを考えなければならないでしょう。これは大進化と小進化の問題を含みますし、進化の大小は変化するかたちの階層が上下に置き換えて論じることが出来るかもしれません。また後日、考えてみます。