2・6・2の法則
2・6・2の法則ってご存知ですか?
「組織の中で2割がよく働き、6割は普通、2割が何もしない」という経験則のことを指す言葉です。おもしろいのは、集団から上位2割を取り去っても、残った8割のうちの上位2割がいきなり働き始め、また逆に、下位2割を取り去っても残った8割のうちの下位2割は働かなくなって、結局2:6:2に分かれるということです。これは元々人間の集団で得られた経験則なのですが、その比率は異なりますが、生物の世界にも似たような状況があるようです。働きアリや働き蜂の行動を観察すると、一定の割合で働かずにさぼっているものが見受けられます。で、このサボリだけを集めてしばらく観察すると、先の集団でサボりが生じたのと同じ割合でサボるものは見られますが、残りは働くようになるようで、 逆に、最初の集団から働き者だけを集めて尖鋭部隊を作っても一定割合でサボるものが出てくるらしいのです。
私は、蟻や蜂の場合は個体が持つ個性を考慮せず純粋に行動を統計的に処理できるのですが、人を対象にするとどうしても個人のアクの強さや性格などを考えてしまい、数学的に割り切れないように考えてしまいます。たとえば、リストラで働きの悪い社員をクビにしたとします。残った社員は、その人の性格に応じて「よし頑張ろう」と思う人もいるでしょうし、「こんな会社で働けるか」などと考えてサボり始める社員もいるでしょうが、それは統計的に割り切れるものではなく、あくまでも個人の性格や考え方に依存すると私などは考えてしまうのです。人と蟻を一緒にするな!などと霊長類代表として叫びたくもなるのですが、でも結果は人も蟻も同じことのようです。いろんな理由付けをしたところで、結局は蟻や蜂と同じ行動をする訳で、人って偉そうなこと言えないな、ってことですね。
で、発生学を考える場合、特にかたち作りを考える場合には細胞の行動学を考える必要があると私は以前から主張しています。この考え方の根底には、なんだか2・6・2の法則と共通する思想があるようにも感じます。今は、個々の細胞の中でどのような遺伝子が発現し、どのような分子がどのように働いているのかについて詳細に記載され、それを元に発生現象を理解しようとする「分子発生生物学」が隆盛を極めていますが、どのような遺伝子が細胞内部で何をしようが、それと形態形成運動の間には何も関連は無いと思っているのです。これは、個々人がどのような性格であろうとも、様々な理由付けはなされようとも、結局は2・6・2に落ち着く状況と似ているかもしれないと感じてしまいます。ただしここで気をつけなければならないことは、分子に傾倒することと分子を毛嫌いすることは表裏の違いはあれども全く同じだということです。現在の発生生物学は分子に偏り過ぎているから、分子を毛嫌いするくらいでちょうどいいのかもしれませんが、毛嫌いを通り越すとマズいように思うのです。有効性と限界を把握しておけば、分子生物学は強力な方法論となりうる訳ですから。ただし、分子生物学は、例え分泌因子を研究したとしても、最終的には細胞内に収束する学問だと思っていますので、その点をしっかり把握しておかないと「分子の罠」にはまる気はします。過去に何度か起こった「構造主義生物学」の波はその都度立ち消えたように感じます(間違っていたらごめんなさい)。その大きな理由のひとつに、分子との対決姿勢があったと私は感じるのです。分子生物学の完全否定によって生物学を進めようとした態度は、悪いとは思いませんが、分子至上主義者達と同じ振る舞いじゃなかったのかな?などと思ってしまいます。近藤滋さんが現れたように、気持ち的には分子に重きを置かないけれど分子と仲良くやっているような底流が起きつつあると感じます。この言葉を使いたくはありませんが、あえて言うなら「構造主義生物学」の新しい波を起こす時期が来ているのかもしれません(私はゲシュタルト生物学とでも呼びたいのですが・・・)。
「分子に傾倒することと分子を毛嫌いすることは表裏の違いはあれど全く同じこと」。全く同感です。若い頃は「10・0・0の法則」みたいなものがスマートで格好よく感じられましたが、歳を重ねるごとに現実が「2・6・2の法則」で成り立っていることをつくづく実感させられます。しかしこの現実的で微妙な比率の「2・6・2の法則」を意識的に実践するにはかなりの体力・気力・知力を要しますよね。だからヒトは一般に「10・0・0の法則」や「1・0・9の法則」といった世界に流れてしまうのかなという気がします(仏教、養老孟司、森毅…が口を酸っぱくして「中庸」、「バランス」などと説くのも頷けます!)
ところで話が変わりますが、「要素・かたち・意味」の問題で、言語に関してですが、下位の構成要素ほどその関係性が厳密に規定されているよう気がしました。例えば「私は彼女と明日学校に行きます」という文の場合、下位の「私」という語は「わ」「た」「し」という並びでしか意味をなしません。で、次の階層の「私は」もまだ最下位の「は」が結合しているため「私は」という並びでしか意味をなしません(「は私」という並びは不可)。しかしこれに「彼女」や「と」が結合すると、「と私は彼女」などの並びは不可ですが、「私と彼女は」、「彼女と私は」、「私は彼女と」などが可能となります。で、これが文レベルになると、例え「明日学校に行きます私と彼女は」といった不自然な並び方であっても意味は通じます。
つまりこのように階層が上がるにつれてその関係性のあり方の自由度が増すために、上位の本質的な問題ほどその関係性を体系的に捉えることが難しくなるのかなと感じてしまいました(かなり荒っぽい考え方ですが…)。
ご指摘の「階層の問題」が分子生物学から生物学が脱却できない大きな原因のひとつだろうと思います。そして、それを考えるのが一番難しい。なぜならここには単純なかたちの問題ではない「かたちの変化のかたち」の問題が潜んでいるからだろうと思うのです。下位のかたちは、要素の変化を考慮に入れていませんよね。クエン酸回路でも、常時酵素反応は進んでいますが、そこに存在する化学物質はいつも同じだから変化はなかったものとして扱えます。だから「回路」図に描ける訳です。でも階層が上がれば、要素の意味が変化します。クエン酸回路のクエン酸が、いきなり別の化学物質に変化するようなものです。するとその上位のかたちは自ずから変わらざるを得ない訳で、これが一番難しいところなのでしょう。最下層のかたちや要素を考慮する場合には時間を止めて考えることが出来たけど、上位階層になればなるほど時間軸を無視できなくなってくることが原因なのかなとは思っているのですが分かりません。