絶対的な意味とは

意味とは原則的に相対的でなければあり得ないと考えている。

では、定義のような絶対的な意味は存在しうるのか?

 

まず、意味付けするにはそのものを切り出さなければならない。

ある物事を切り出すことも人間の脳の大きな役割だろうと感じるのだが、

とにかく連続的である現象、あるいは混沌の中から、

ある種の概念を切り出さねばならない。

ひとつとして同じものは存在しないであろう林檎を

林檎という概念で切り出してひとつのものとする行為や、

赤という色をそれ以外から切り出して「赤」とする行為は

意味付けとまったく同じと認識されても良いような気もする。

 

さて、切り出すということは何を意味するのか?

それは、他の物との区別であることは間違いない。

差異を認識しなければ切り出せない。

というか、相対的に決まる「意味」を考える場合でも、

意味付けされる対象は、

それぞれすでに脳の中では他者から切り出されて存在していなければ

相対化すら行なえないはずだ。

だから、絶対的な意味付けには切り出す行為が必要であることは間違いない。

その後に相対化されるということであり、

これが意味の階層であるのだろう。

ただし、意味の階層性という考え方をすると、

相対性の階層もまた同時に存在するから、

これと、切り出されることで規定される意味は区別されなければならないだろう。

 

で、相対化というのはCPUとメモリの問題で何となく片はつきそうに思う。

でも、切り出しという行為は、PCにできるのだろうか?疑問である。

PCには、なんにしてもどこかで切り出された情報のインプットがなされなければならず、

PCが、何かを切り出すことがはたしてできるのだろうか?

もちろん切り出し方をプログラムしておけば、

混沌から何かだけを認識することはできるだろうが、

そのプログラムが脳にあるとは何となくだが思えないのだ。

 

相対的な意味付けによって論理構成は決まりそうに思う。

だから、相対化の度合いや階層が複雑になればなるほど、

形成しうる論理の複雑度は高くなるだろう。

CPUやメモリが発達していればいるほど高い論理構成が可能だろうし、

複雑な論理的思考を短時間で処理できるようになる。

だから、これはこれでいい。

でも、切り出す能力というのは論理力ではないはずだ。

切り出せなければ、その上に論理の構築はありえない。

だから、思考の最も基本能力というのか、

いや、能力というのはちょっと違う。

これ無くして論理の存在はあり得ないという根本的なものが

ものをものとして認識する行為なのだろうと思う。

ア・プリオリにものが存在できないのは論を俟たない。

しかし、ア・プリオリにものが存在しているとしてすべての思考は行われる。

この前提が絶対的な意味の「意味」なのだろう(まあ、この議論は何度もしているのだが)。

 

たとえば、DNAの塩基配列は、ただの並びである。

元来そこに意味など存在しないはずだ。

しかし、ゲノムはそこに意味付けをした。

この意味付けの基本は間違いなく自己複製という能力に関連するはずだ。

だから、自己複製できるDNA断片が生じたときに

そのDNA断片は他のDNAから切り出され意味が与えられたのだろうと思う。

これは決して相対的意味ではない。

まあ、他から区別されるということから「相対的」な感じもするが、

他のものとの相対的関係性は何も意味付けに貢献していないから

これは自己複製というふるいにかかるかどうかによる

絶対的な意味付けとされて構わないのではなかろうか?

まあ、これが「ゲノム」の定義で構わないと私は思う。

 

さて、で、自己複製できるDNAがゲノムだから終わりでは話は済まない。

自己複製できるという事実を説明することが求められる。

これは実験的に求められなくても論理的に求められる必要がある

(現実には逆にしか動いていないのだが・・・・・)。

複製の意味を考えると、何らかの触媒活性が必要となろうし、

それを担う記号や、基質となる記号がDNAの中にあるはずだ。

それを切り出して考えなければ論理は構築されない!

はたしてそうだろうか?

西洋科学的な論理の方法論に毒されているのではないのか?

この切り出しの方法は、順番的には逆だろう。

 

自己複製という潜在的な「目的」を追い求める方向に生物は進化してきた。

これはある種ラマルク的な議論のようにも聞こえるだろうが、

生命の定義が自己複製能だとすれば究極的な「定向進化」は生命の本質だろう。

そして、何にせよ少しでも効率的に大量の子孫を残す方向の変異が有利だとするのも、

それは議論の方向が逆であり、

大量の子孫を残せるような進化を遂げたからこそ繁栄したという結果に過ぎない。

これはもちろん現時点での結果であってはるか将来に振り返ると

「現在」ですら過渡期であることは間違いない。