分類学
時間を永遠に遡ったとしてもおそらく物理化学的に全く同一のみかんは存在しません。だから、デジタル情報としてみかんを考えるとみかんの数だけ独立した情報が乱立することとなり,そんな情報を脳が処理できる訳あり得ない。しかし私たちの脳は「みかん」というカテゴリーで切り出して認識しています。だから、私たちがみかんについて話すとき全員が同じような認識を持てます。リンゴもバナナも同様ですよね。次に私たちは,リンゴ・バナナ・みかん・・・を「果物」ととカテゴリー化しています。そして,そのカテゴリーとして閉じた時に果物は独立した意味を持ち、その下位にあるみかんやバナナによってその意味は影響を受けません。果物としての意味は、みかんが地球上からなくなったとしても変わることはないでしょう。次に果物は、食べ物としてカテゴリー化される場合もあるでしょうし,植物としてカテゴリー化される場合もあるでしょうが,それらの意味は下位の要素によって全く侵害されることはない訳です。そして、みかんやリンゴなどの要素が集まって果物として閉じたら、果物はその上位のカテゴリーを作る要素となります。しかしこのような関係性が出来上がってしまうと、つい逆の視点から見てしまいます。たとえばある木の実が果物のカテゴリーに入るかどうかという見方をしてしまうのですが、この考え方は、最初に果物という概念がア・プリオリに存在していることを前提にしております。しかし、みかんやバナナなどが存在しない時に果物という概念が成立するはずはない。
いうまでもないことですが、カテゴリー化する方法論は無数にあります。それは言語体系によって影響を受けるでしょうし,生活によっても影響されるかもしれません。環境や歴史によっても影響を受けるでしょう。言語体系も,環境や歴史などから影響を受けることは自明の理なので,これらは密接に関係し合って成立している訳です。ここに言語や民族による認識の差異が生じます。言語という論理体系自体も異なりますが、その体系に組み込まれる要素ですらも、その切り取られ方が異なる訳です。日本語で氷は「凍るもの」ですが、カナダのエスキモーでは「溶けるもの」と認識されます。似たような例はいくつも見受けられ,同じ日本国の中においても北海道と沖縄,都会と田舎、島と山の中などによっても様々でしょう。これが単なる方言にとどまらない地域性を産み出す原因のひとつかもしれません。
また話が横道にそれました。さて、カテゴリー化する作業とは差異を排除する作業と同じことだと考えられるでしょう。ブリダンのロバのたとえにもありますが、ふたつのものをふたつとして認識するためには必ず差異が必要です。全く同じ顔をした双子の一方と結婚する時にどちらを選ぶのかを考えると分かりやすいのですが、どちらかを選ぶ瞬間にそこには意味(理由)が発生します。名前が好きだからでも良いし,右側に立っているからでも良い,とにかく差異を認識して意味付けせざるをえません。そこで、その都度、挙げられた理由(差異)を無くしていく、すなわち「名前が・・」なら「名前は同じだとしたら・・」、「右側に・・」なら「同じ場所に立っているとしたら・・」、すると、ふたつには差異がなくなる訳で,するともはやふたつとしては認識できません。そうすることで、個別には異なるものを概念としてひとつに納めることができます。クエン酸とひとことで言いますが,そこには大量のクエン酸分子が存在しています。しかし,それをまとめてクエン酸として議論をするということです。その場合にはクエン酸分子間の差異を無意識に排除しているのです。
生物種を考える時にも似たようなことが起こります。我々ヒトも、二人として同じ人はいません。双子であっても違いはあります。しかし、ヒトとして認識されます。これは学問的にというよりも直感的にそのような認識をしていると考える方が良いように思います。違いを分けていくと個体差にまで及ぶけれど,個体差ではない、それ以上の最小の単位があると私たちは感じました。その思想上の最小単位をタクソン(複数形でタクサ)と表現し、そのタクソンを追い求める学問を「タクソノミー」と呼ぶようになりました。だからタクソノミーとはかなり哲学的な学問大系であると言えます。このタクソノミーは日本語に翻訳されて「分類学」となりました。分類という言葉から受ける印象とタクソノミーという言葉から受ける印象はかなり異なりますが、それは日本の思考体系と西洋の思考体系の違いによるのかもしれません。タクソンを考えることは,我々の脳がみかんをみかんと認識することに等しい訳ですから,ヒトの脳の根源的な働きに端を発するのかもしれません。あるいは,ヒトゲノムやチンパンジーゲノムというそれぞれ独自の体系を作り上げて来た歴史が脳に刻まれているのか?こんなことを考えるとオカルトっぽくなってしまいますね。
とにかく、進化を考えゲノムを考え分類学を考えるのは脳の仕事です。絶対世界から何かを脳が認識しなければ我々は生きていけません。その認識は、視覚が認識できる波長の光や聴覚が認識できる波長の音、あるいは感じることの出来るニオイなどから情報を取り入れますから、ここで選択されなかった情報は全て我々には存在しなかった情報です。同様に,脳が情報を処理する時にはあらゆるレベルでカテゴリー化して情報のカオスの中から切り出して来なければならない。この脳の働きがあるから必然的(宿命的)に分類学を考えざるを得なくなったのかもしれません。もしかしたら,絶対世界にはそのようなカテゴリーや生物種の分類群などは存在しないかもしれません。しかし,それでは私たちの脳は認識できませんし思考できませんから、全てのものをカテゴリー分けし意味付けするという脳の働きの結果を事実として私たちは必死で考えているとしたら、脳が脳の中に描いている絵を脳を用いて解読しようとしているに過ぎないのでしょうか??
以上,言葉遊びでした。
概念化とカテゴリー化の違いなど基本的な用語がわかっていないのでかなり混乱していますが、身近なカテゴリー化の例として「音声と発音記号」を思い浮かべてしまいました。例えば英語話者の発する「ア」はどれ一つとして同じ「ア」は存在しませんが、便宜上3種に分類されていますよね。で、もしこのうちの1種類しか聞き取れなければ、残りの2種類の「ア」はこの世には存在しないということでしょうか。となると「存在」とは「そのものが実際にあるかどうか」ということではなく、「それらしきものが概念として切り出されれているか否か」にかかっている、つまり「存在するから認識できる」わけではなく、「認識できているから存在する」ということでしょうか?
また混沌とした情報の中からある情報を選択してカテゴリー化する作業(=認識、思考?)というのも「かたち」と同様、非常に個人的なもののように思われるのですが、それゆえにその切り出された概念を他者と共有するために、体系化したカテゴリー化、すなわち「分類学」が登場したということでしょうか?
ところで最後の「脳が脳の中に描いている絵を脳を用いて解読しようとしている」という部分を読んで、中世ヨーロッパの神学論争を思い浮かべてしまいました。多くの聖職者が天使の位階について論争するなど今日の我々からするとちょっと考えらないことですが、しかしきっと彼らの脳の中には、私たちが「これは事実だ!」と思っているのと同じくらいのリアルさで、神や天使たちが存在していたような気がします。でもそう考えると私たちが「これは事実だ!」と思っている事実もかなり怪しくなってきてしまうのですが…。
まずはじめに,ここでの橋本の発言は全て
橋本が勝手に妄想していることですから
これが正しいと主張するものではないことはご理解くださいね。
かたち・構造・関係性などを考えているうちに煮詰まってきたことを
皆さんに聞いてもらおうと思っているに過ぎない訳です。
「カテゴリー化」「概念化」って言葉も大して考えずに使っています。
それこそ,「文脈で意味を判断してもらおう」って甘えた気持ちです。
真面目にお読みくださっている方には本当に申し訳ありません。
さて『「存在するから認識できる」ではなく「認識できているから存在する」』
この表現で正しいと思います。
アプリオリに存在するものは一切ないと私は考えています。
切り出す作業には何かとの違いが無ければならないはずです。
何か他のモノとの比較があって初めて切り出すことが出来る訳で,
県境(周囲の県)があって初めて「県」が規定されるということで
ア・プリオリに「県」が存在する訳ではないと思います。
認識は非常に個人的なものというお考えには賛成します。
したがって,常時修正を加えていかなければならない。
言葉にしても,毎日誰かの言葉を聞き,自分の言葉を聞いてもらうことで
その意味を確認し,理解しているのだろうと感じます。
「あ」という音にしても、英語圏の人は何種類かに切り出して聞き分けていますが、
日本人は、おそらく違う音であることは分かっているだろうけど
それらをひとつの音として切り出して認識していますよね。
この認識も日々の生活環境によって成立している訳です。
みかんにしても,あらゆる柑橘系の果物を見ていくと
ギリギリのところに行くとみかんの範疇に入れるかどうかは
個人の価値観に依存するところがあるように思います。
みかんはそれほど違わないかもしれませんが
思い込みによって切り出し方が他の人と異なっている場合など
それは言葉の意味の問題であれば日常会話の中で修正される訳です。
これが「意味とは相対的なもの」と私が言う理由で
そこで語られる文脈によって意味が規定されるのですから
その意味は、その文脈を超えては定義できない。
また、日常的に修正をし合っている集団が限定されるなら
その集団の中だけの「個人的な」意味付けが成立するはずです。
これがたとえば方言であったり、
日本語やフランス語という言語であったりする訳です。
切り出し方の例として私は氷をあげました。
それ以外にも、日本では「麦」なのに
アメリカでは「バレイ」「ウイート」「ライ」など固有の名前が与えられる。
だから「言語というものによって我々の思考が・・・・」と議論されるのですが
この議論は間違っていると思います。
確かに意味を規定するのは生活環境ですし、その言語環境も密接に絡んでいますが
この類いの意味付けによって思考形態が影響を受けるとは思えないのです。
なぜなら、それらの意味付けはその言語体系によってなされているからであり
その逆ではないと私には思えるからです。
サピアが言った「脳の中に生じた衝動は非論理である」という言葉や
「脳の中に体系づけられた言語こそが論理であり認識である」という言葉の意味は
言語という体系(すなわち関係性・かたち)によって論理が形成されるということであり
その論理に基づいた意味付けはあくまでも二次的なものであるからだと思います。
生物の分類も、個人が勝手にしていたのでは混沌に突入しますから
それを他人の認識と戦わせて、多くの人の認識と共有するものが正しいとされるだけの話で
そこに人間特有の論理付けをすることで学問として成立させているのではないでしょうか?
こんなことを言ったら分類学者に叱られるかな?