それでも追試?

先日、ネッシーみたいな論文の追試は無駄だという趣旨の文章を書いた。

超常現象は、いや別に超能力でも何でも良いのだが、

そういったものは本人たちだけが「ある」というだけで終わる。

まったく詳しくないので間違っているかもしれないが、

「UFOがなぜ飛ぶのか?」と問われて「半重力だ!」と答えられても、

それを客観的に見せてもらえない限り信じることはできない。

個人が思い込むことと、客観的に信じることとは異なる。

こんなことはカール=ポパーの言を持ち出すまでもない。

 

UFOを信じる人たちが、「幽霊や超常現象と一緒にしてもらっては困る!」と言っても、

その論理の建て方(論理は存在しないので話の筋道とでもしておこう)はどう見ても同じである。

UFOを信じている人がテレビ番組で以前に「宇宙人の写真を持っている」と紹介していた。

それがどう見ても普通の白人男性なのだ。

で、その人曰く「これが宇宙人だ」ということで、

別に科学者ではなくても、普通に考えてもこの写真で「証明された」とはならないですよね?

月の反対側にはUFOの宇宙基地があって、

NASAはその事実をひた隠しにしていると言われても、

それが嘘だとはもちろん言い切れないけど、

じゃあ、なぜそのNASAのトップシークレットをお前が知っているんだ?って思うでしょ?

結局は客観的な証明にはなり得ない、主観をも越えた感情論で話されても、

たぶんだれ一人としてそれを信じられない。

 

その人がそれを信じていることは何の問題もない。

しかし、それを声を大にして「だから、あります!」と言われてもどうしようもない。

いくら200回以上成功していると言われたって、

それを証明したとして公開されている論文に

すごく納得できる疑義が生じている以上は、

しかも、その疑義が科学の世界での議論の過程で生まれる疑義ではなく、

ネッシーの世界で指摘されるような疑義のレベルである以上、

それをさらに時間もお金も人間もかけて追試する意味が分からない。

 

しかしながら、外部の提言ではそれをするように勧告されている。

そもそも実際には実験すらなされていなかったのではないのか?と、

あらゆるデータが示している実験をあえてさせる意味はどこにあるのだろう??

穿った考え方だが、もしかしたらきっちりと追試をして

「ない」ことを証明させる目的なのかもしれない。

それをしなければ、いつまでもあるという可能性を引きずる。

だから、責任を持って幕引きを図るための、

語弊はあるかもしれないが、幕引きのような考えなのだろうか。

あるいは、ソフビのネッシーの写真も理研からでたら

すべて膨大な予算をかけて追試されるのだろうか???

ちょっと私には理解できない。

まあ私が理解しなくても体制にはまったく影響しないことはいうまでもないのだが。

 

マスコミの風潮からふたつの点に興味が集まり、

またこれらふたつの点が一緒くたに議論されてきたところにも疑問がある

ふたつの点とは、

1・研究不正が行われていなかったか、

2・例の現象(細胞)は本当に存在するのかだが、

1の議論の場で2の疑問点が呈されることもしばしばだったと思う。

で、1に関しては徹底的に行なわなければならないが、

2に関してはこれ以上公的にするべきではないというのが本論の趣旨である。

ネッシーがいると信じる人が今後も己の時間とお金を使って調べればいいし、

それを科学の作法に則って公表すればいいだけのことだと思う。

 

ところで話は変わるが、少なからずの人が指摘されていたが、

この問題は、今世紀初頭のベル研究所の問題にとても良く似ている。

もしかしたら渦中の女性研究者は実際に実験したことがないばかりか、

この辺りの知識、それも実際に手を動かして実験している人なら誰もが知っている知識を

持ち合わせていたいのかもしれないなんて、

ベル研究所の話からついつい連想してしまう。

 

もちろん言い過ぎです。

申し訳ない。