形態形成運動と遺伝子発現3

淘汰圧は、おそらく様々な様式でゲノムにかかってくる。

そのうちの「それまでの正常発生を許容する」という淘汰圧、

すなわち発生拘束、が多細胞生物の進化には大きな意味を持つのだろうという話である。

たぶん、複雑な構造を作りうるという意味で

膨大な卵黄を持つことが進化にとって有利だったことは否定できないだろう。

だから、その変異は残りうる変異だった。

ある程度までの卵黄の蓄積は、多くの魚類や両生類のように、

なんとか細胞分裂をさせうるという意味において形態形成運動に影響を与えなかったと思う

(それでも原索動物から脊椎動物が生じた原動力には

卵黄の蓄積による卵の肥大化が大きな意味を持つとは考えているのだが)。

しかし、卵黄の蓄積が生存にとって有利に働くという淘汰圧がかかり、

更なる卵黄が蓄積されてきた場合に、

卵の大きさ的にもそれまでの原腸形成は起こりえず、

また卵黄を過剰に持った細胞は、細胞として存在しきれなくなり、

栄養源としてカセットボンベのようなかたちで卵黄は存在するしか手は無くなった。

すると形態形成過程は卵黄抜きで行なわれなくてはならない。

巨大な卵黄の塊を完全に被うようなかたちで胚体を形成することは物理的に無理になっただろうし、

卵黄は完全に無視して胚体を別個に形成させる形態形成運動の戦略をとらざるを得なかっただろう。

それが羊膜類の出現に大きく関与したのだろうと考えてもあながち間違えとは思わない。

本論とははずれるが、ゼブラフィッシュなどは卵黄場所を原口の側にしてしまったから、

卵黄をそれ以上大きくはできなかったと思える。

しかし、現行と反対側に卵黄を蓄積すれば、ダチョウの卵くらいの大きさでも卵黄を蓄積できる。

これがゼブラフィッシュと爬虫類・鳥類の原腸形成運動が真逆だという意味である。

ちょっと議論がずれた。

なんにしても、このように発生現象による拘束力(すなわち淘汰圧)を思考にいれれば、

それを満足させうる変異のみが残ってくるというのは普通の論理となる。

だから、この論理を突き詰めれば、しつこいようだが、

この変化の原動力はあくまでも発生拘束だということで、

遺伝子の変異が変化を駆動しているのではないということになる。

 

私はこれまでにも、ゲノムの変異はあくまでも結果であって原因ではないと言い続けている。

もちろん個別の進化にはゲノムの変異が主導的役割を果たしていることもたくさんあるだろうと思うのだが、

どうも傾向として、ゲノムの変化のみが進化の原動力である、

ゲノムさえ分かれば進化は分かるという風潮に抵抗感を覚える。

いかにゲノムが変化しても、正常発生を阻害するような変異が残るはずは無い。

体制が複雑になればなるほどゲノムの変異は進化にとって従属的にならざるを得ないだろう。

この辺りの議論が決定的に不足している、私にはそう思えてならない。

 

以前もこの欄で取り上げたが、

”How morphological structure could control gene expression”

というタイトルの論文が1988年に公開されている。

あのときでも十分に衝撃的だったこのタイトルの意味は現在においても大きいと感じる。