続ノックスマシン、またはゲノムの方法論
先日に引き続き法月綸太郎の「ノックスマシン」から話を始めます。
この書籍の内容を楽しめるにはかなりの予備知識が必要だと思います。
私は小学校の頃から推理小説を読んでいました。
それほど体系づけて読んでいたわけではありませんが、
高校の時にはクリスティの文庫はすべてもっていましたから、
それほど素人というわけではないと思います。
でも、この本に納められた短編(中編?)の数々を読んでいる時に
「これって読者を選ぶよな」って感じたのは事実です。
実はこのようなことは日常的に良くあることです。
ある文章を読み、ある言葉を聞き、理解した気になって内容の批判をします。
その後、自分がいろいろと勉強してからその批判がまったく的外れだったことが分かった時に
まあ自分の無知蒙昧さに嫌気がさすということがしばしば起こります。
こんな経験を繰り返すと、他人の意見を否定できなくなります。
「間違えているように思うけど、もしかしたら私には分からない深遠な何かがあるのかも?」と
とにかく無批判に一度は受け入れるようになります。
その結果、もちろん最初の判断が正しいこともたくさんありますが、
無批判に一旦受け入れるという行為そのものが、
その意見の是非を通り越して、
新たな思考へと導いてくれることもたくさんあることに気付かせてくれます。
まあ、このような経験が今の私の思想のひとつの根幹にあるのは間違いないことでしょう。
で、ノックスマシンですが、表題作とその続編の内容に関して、
私がゲノムに関して考えている延長線上にある何かに引っかかります。
もちろん著者はそのような考えはもっておられないと感じますが、
言語様式を表現するこのようなプログラム(アルゴリズム)の作成、
作成自体ではなく作成までの過程、がゲノムの理解に新たな地平を開かないかと考えるのです。
プログラムを作ってもいろいろと問題は生じるわけで、
その問題を解消する様々な行為や新しい概念の創出が
ゲノムの理解へと繋がるのではないか?ってことです。
これは本当にかなり昔から夢想していることで、
人間が何かを思い描いて物語を作り上げることには限界があり、
しかし、それを実際にプログラムとして走らせたら
理屈は分からないけれどなにか予想だにしない不思議な法則性が表れるってことがあるのでは?ってこと。
人知の限界なんてたかが知れていると思うわけです。
また、自然界には後付けの理屈しか成立しないような法則がたくさんあるだろうし、
そのような法則によってかなりの部分が支配されていることは間違いないと思う。
ゲノムに書かれている内容は結局はこのような「法則性」によって成り立っているわけで、
これの理解は人知の及ぶところではないと思うのです。
ここでいう「理解」とは、その法則性をあらかじめ知ることを指します。
法則性が見いだされてからは、何らかの方程式などでの記述は可能でしょう。
しかし、その隠れた法則性を予見することができるのか?と問われれば、
私には否定的な答えしか出せないということです。
で、なにかアルゴリズムを動かした時に、
そのプログラムを書いた時点では想像だにしなかった何かが起こりうる、
そこに重要な物事が隠れているのではないのか?ってことです。
ここではノックスマシンの話の流れから
コンピュータプログラムについてだけ述べていますが、
生物(人)の行動でも構わないと思います。
行動とは何かに対する思考的な反応でもいい。
こういうのはおそらくあらかじめ予想して考察できるものではないでしょうが、
一定の初期条件を与えたら同じような行動がとられ、
その行動パターンに理由付けするのがひとつの学問だろうと思います。
こういう方法論をゲノムに持ち込めないのか?ってことです。
ちなみに、私は数式やコンピュータでゲノムを特という方向にむいていません。
理由は、その才がないというのが一番大きいのですが、
それ以上に、人間の思考が伴わないというところに面白さを感じないのです。
これは、上述のように、数式やプログラムの先に本質はあると思っているからであり、
個人的には思索・思考によってゲノムを求めたいという性向が強いということでしょう。
でも、コンピュータに強い人にはぜひこのような試みを行なってほしい。
「えっ」と思うような不思議な法則性の登場には心底ワクワクします。
と、まあ、どこまで真面目なのか分からないブログになりましたが、
書籍「ノックスマシン」もSFとのことなので、
私の文章もSFとしてお読みいただければ幸いです。
決して真面目に批判なされませぬように。
いかなるご批判にも対応できるとは思えませぬゆえ。