かたちの変化のかたち

かたちとは、その瞬間の構造である。

ある瞬間に要素同士がどのような関係性を築いているのか?ということだろう。

思考的にはかたちを考える場合に時間を止められると思う。

しかし現実には、「考える」という行為自体が時間を要求する。

それは「考えること」がはたらきであるからである。

かたちを考えると不変のように思える。

そのままの関係性が未来永劫継続するように思える。

まあ、だから「かたち」として認識されるということであり、

この説明はトートロジーだろう。

しかし、かたちを認識することに時間が要求されるということは、

どの瞬間を見ても同じかたちは存在し得ない。

同じに見える要素が同質に見える関係性を築いていても、

それは、それ以前の要素とは別物であり、

したがって、それ以前の関係性とも,たとえ同質であったとしても、異なる。

まあ、無常という感覚で的確に表現されることと考えて間違いない。

こう考えると、かたちが変化するのは当然のこととなる。

変化しないということは,そこに何かの力が加わらなければならない。

何もエントロピーを持ち出すまでもなくしごく当然の議論である。

 

さて、かたちは移ろいゆくものと書いてきたが、

かたちとして成立する以上は何らかの意味を持つ。

体系として閉じている限りにおいて、

そこに意味が生じるのは当たり前である。

というか、混沌の中に意味は生じ得ないだけのことであり、

意味とはかくあるものだということに過ぎない。

意味を維持するために体系外から何らかの力が常時加わっているということであろう。

したがって、質的に同一の要素の間で同様の関係性が成立する限りにおいて、

そのかたちは見た目上は不変となりこの要素を考える限りにおいて時間を止められる。

ただ、かたち論でクエン酸回路を例に議論したように

その瞬間瞬間でかたちを構成する要素は異なっているという認識は重要であり、

その、微分的な時間の積み重ねを経てなお普遍的なかたちの存在に意味がある。

 

さて、生きものを考える場合にかたちはゲノムであり、

かたちを維持する外部からの力が淘汰圧となろう。

淘汰圧とは決して積極的に働くものではない。

ただ、淘汰圧をくぐり抜けたものだけが残りうるという事実が、

なにか積極的なはたらきを想像させるだけに過ぎない。

ここまでの議論でも分かるように、

基本的に淘汰圧は現在のかたちを維持させるためだけに働いている。

決して「有利な変異」を固定するために働いているわけではない。

もちろん、これは認識する立ち位置の違いでどちらに考えても構わないのだが、

工業暗化の例のように積極的に進化を駆動するような考え方は議論を誤った方向に導くだろう。

有利な変異が成立する条件とは、

現環境が、そのかたちを維持するのに困難であることが大きい。

だからこその工業暗化であり鎌形赤血球である。

 

ちょっと議論がそれた。

とは言うものの、事実としてゲノムは変化している。

要素が変化し、新たな関係性が淘汰圧の制限下で構築されてきた。

たぶんひとつひとつの変化は微分的な時間の積み重ねの中で起こっているだろうが、

かたち自体が変化するのは瞬間的なことだろう。

かたち・体系という安定した関係性が、

いったん不安定な状態を経て次の安定へと変化するとは考えにくいからである。

おそらく、このステップワイズな変化の歴史が系統というものであろう。

この意味において、分類学(taxonomy)とは質的にまったく異なる。

この両者はまったく異なる論理体系によって思考されるべきであり、

完成した論理同士の擦り合わせは可能かもしれないが、

思考の過程は混同されてはならない。

 

系統とは、あるかたちが別のかたちへと変化したことの履歴である。

系統図を書けば時間軸が止まって見えるが、

系統の成り立ちを考える際に時間を無視することはできない。

ここで標記の言葉が出てくる。

かたちとは、ある瞬間の、すなわち時間軸を意識しない条件下での、

要素同士の関係性である。

だからクエン酸回路のように図示できる。

系統とは、特定の瞬間のかたちが別の瞬間にどう変化したのかを示すものである。

もう少し突っ込んで言えば、

時間軸にまたがってこれらの変化を見た場合の「変化という関係性」ととらえられる。

違う言い方をすれば、

瞬間瞬間のかたちをひとつの要素と認識し、

時間をまたがってこれら要素の関係性を理解しようということに他ならない。

だから、ある瞬間のかたちは要素であり、

それを分解すればゲシュタルト崩壊するはずである。

ここに個体発生と系統発生の永遠にも思える深い溝が存在する。

この点を論理的に整理しなかったことがエボデボの敗因のすべてだろう。

 

ただし、系統関係が図示されうるという事実は別の意味において重要だろう。

もちろんそのまま、かたちとのアナロジーで思考することは止めなければならないのだが、

系統という本質を理解し、その成り立ちをただしく認識すれば、

時間軸をまたがった関係性として理解し直せるかもしれない。

また、この意味においての階層性を考え直すことで

あらたな思考の場が提示されそうにも感じる。

ここでも、かたちとはたらきの区別はどの瞬間においても明確にされるべきだろう。