ゲノムと遺伝子
さて、心経の続きです。
体系なくして要素が存在しないと考えたとき、
ゲノムなくしては遺伝子の存在すらあり得ないこととなります。
遺伝子単体が意味を持たないというのは分かりますが、
その存在すら疑わしくなるということはどういうことなのか?
ゲノムを自己複製する要素と考えるとき、
極論すればゲノムが遺伝子を持つ必要はありません。
ここでいう遺伝子は「一遺伝子一酵素説」の遺伝子みたいな考えで良いと思います。
現に鉱物が鋳型となるという説もあるくらいなので、
ゲノムがゲノム自体で複製できると考えてみましょう。
自己と同じものを複製し、子孫として後世に遺す体系をゲノムとするわけです。
ゲノムに何らかの偶然で「遺伝子」の働きをもつ領域ができたとした場合に、
その時点では少なくとも遺伝子機能と自己複製能の間には相関はないはずです。
自己複製できる体系の中になんか勝手なことをする働きが加わったくらいのことでしょう。
そうこうするうちにその他の働きも偶然獲得することができ、
それらが自己複製に直接関与し始めたとき、
これは別に複製装置の部品として直接的に何かをしなくても、
ゲノムが分解や攻撃から身を守る何らかの役に立つということでも構わないと思います。
とにかく、複製と維持にとってなんらかの役に立つ働きを獲得した時に
「遺伝子」という概念は成立したということになるのかも知れません。
逆に考えれば、いまだってDNAはその物理的存在によって、
たとえば体積として空間を占めているということなどからも
様々な影響を周囲(の分子)に与えているでしょうが、
それは基本的には分子生物学的には考慮されませんから、
その「働き」は無いものとして見なされそうです。
しかし、その「働き」が実際に何らかの関係性の文脈から認識されると
その「働き」は実体として認識されるようになるということでしょう。
遺伝子という実体がア・プリオリに成立し、
その集合体としてゲノムが成立するという考え方に違和感を覚えるのは
実は無意識にこういうことを思考しているからかも知れません。
ただ、こう考えるまでもなく、
生物学は生物という体系の存在を前提として成立しているし、
その前提無しには生物学という学問大系そのものがそもそも存在し得ないことは明らかです。
生物という体系とは自己複製する体系の総称だろうし、
それこそまさにゲノムという概念に帰結するわけで、
生きもの、あるいはゲノムの存在無しに分子生物学が存在し得ないという事実は、
遺伝子や分子がア・プリオリに存在し得ないことと同じということを示しているのかも知れませんね。