もう少し・かたちか情報か?
ご無沙汰しております。
先日のいまいさんからのコメントをきっかけに少し考えているのですが、
(https://hashimochi.com/archives/6253/comment-page-1#comment-2214)
これはちょっと思考実験のような話になってなかなかまとまりません。
まとまらないのも、まとまらない論理展開をお見せすることは面白いと思うので、
それはそれでいいのでしょうが、
でも、まとまらないと文章にならないということで
現実問題としてはコラムにならないという状況です。
さて、今回はあらためてゲノムについて考えます。
ゲノムとは遺伝子の統合であるというのはゲノムという言葉の成り立ちからもわかりますが、
そこをもう少し掘り下げてみましょう。
化学物質としてのDNAとゲノムの違いは端的に言えば自己複製能を有するかどうかでしょう。
ただ、DNA自体が己の構造を複製する能力を持たないから
自己複製させる装置を作る情報を己がもつという入れ子構造となっており、
そこにかたちと情報との融合と解離が見て取れると書きました。
この考えを別の視点で見たらどうなるかということです。
遺伝子、あるいは遺伝情報というのはゲノムの本体であるという認識が強くあります。
だからゲノムは遺伝子の統合であるということです。
しかし、では遺伝子というものを考えると、
その意味はすなわち生き物という「ゲノムの乗り物」を具現するための情報に過ぎません。
だから遺伝子を情報と捉えることはその通り議論の余地のない事実のように思います。
しかしその延長として、遺伝子の集合体であるゲノムも情報であると考えると、
それは間違えていると思っています。
その根拠というか、感覚的に覚える違和感は何かと言った時に、
それは、遺伝子あるいは遺伝情報として我々が認識しているものは、
複製され子孫に受け継がれるゲノムの本質ではなく、
ゲノムを複製させる機械を作るための情報に過ぎないというところにあるような感じがするのです。
すなわち細胞がなくては、細胞を作る情報がなければゲノムは複製できませんが、
それはゲノムの本質というよりもあくまでも手段にすぎず、
DNAを複製する手段が別にあれば遺伝子そのものには意味がなくなるということになります。
まあ、細胞には他にもDNAの材料を合成したり細胞内に濃縮したり
あるいはそのためのエネルギーを生産したりという機能はありますが、
それも究極の意味は自己DNAの複製に過ぎない。
だから、ウイルスなどはその複製場所を他人にゆだねて
自己のゲノムには複製機械の情報を最小限しか乗せていないわけです。
極端な場合には複製機械としての細胞を乗っ取る場合もあるわけで、
それが究極のゲノムの意味と考えてもいいように思います。
ちょっと話が逸れ始めましたが、
ここでの議論は、ゲノムを遺伝子の集合体や統合として考えていいのか?という問題です。
まあ、遺伝子という概念をどうとらえるのかにも関わりますが、
今まで通り生命現象を制御するための情報としての遺伝子であれば、
それとゲノムとの間には意味の上での関連はないのではないかということです。
この辺りに個体発生と系統発生におけるゲノムの意味の違いがあるような気もします。
繰り返しになりますが、
ゲノムとは一義的には、己を複製することを繰り返す存在である
と言い切っても特段間違っているとは思いません。
だから、ゲノムの意味であり目的も同じだろうと思うのです。
そのための戦略として「遺伝子」を乗せているに過ぎないということ。
この論点から見れば、遺伝子がゲノムの意味を規定してはならない、
遺伝子の意味を用いてゲノムを説明してはならないと思うのです。
遺伝子は、ゲノムの本質に対してはあくまでも従属たるものであり、
この意味においてゲノムを遺伝子の総体としてはならないのだろうと思います。
もうこうなると、遺伝子から発生や進化を語るのは、
発生や進化を各論として知るためと言うなら理解もできるでしょうが、
ゲノムを、もっと言えば生命の本質を、知ろうとする方法論としては、
これは明確に間違えているとしか言えません。