ベネズエラのアマゾン奥地で、

金の発掘業者から先住民「ヤノマミ民族」が多数殺害されていたと報じられた。

記事によると、南部の集落で7月に80人近くが殺害され、

生き延びたのは3人だけだったそうだ。

この報道自体にはこれ以上コメントはないのだが、

記事の中に「面白いなあ」と興味を引く記述があった。

なんと「同民族には明確な数の概念がなく、正確な人数などは不明」ということで、

数というものはとうぜんア・プリオリに存在すると思われているであろうことを

まあ明確に否定する具体的事例ということだ。

 

数という概念を人間の脳が規定して初めてその数が産み出す法則性があらわれた。

それが数学であろう。

数学ってもう当然のことだと思ってしまっているのだが、

数がア・プリオリに成立しないとすれば数学そのものも成立し得ない。

すべては「前提」に依存するってことで、

そう考えたら非ユークリッド空間で平行線が交差するって議論も

内容はともかくとして、言わんとすることは分かるような気はする。

 

言葉がなければその概念は生じないということはしばしば書いている。

しかし、そう理解したとしてもなお、

基本的な概念はア・プリオリに成立していると考えがちである。

この原住民の話をとっても、単に彼らが「遅れている」だけだと思ってしまう。

この発想を変えることが重要なのだろうと思うのだ。

 

以前、朝日新聞のコラムに書かれていたことをあらためて紹介しよう。

 

「そこにあるのに、それを表す言葉がないために認識されないものがある。

裏を返せば、見過ごされていたものも、名称が与えられる事で顕在化する。」

 

この事実に気付くことで科学に対してなんとなく虚しい気持ちになることもある。

科学って物事はすべからくア・プリオリに成立する前提があるような気になっているのに、

すべては脳が勝手に作り上げた幻想であり、

研究ってヤツは単なる自慰行為に過ぎないって思えるから。